ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

教室の中の「日本語の壁」にどう向き合うか

日本語指導が必要な外国籍の児童生徒が、20年前と比べて約3倍に増えているという報道があった。

kumanichi.com

文部科学省のデータによれば、公立小中高校に在籍する外国籍の児童生徒のうち、日本語指導を必要とする子どもは約5万8千人。日本国籍を持ちながら日本語に不慣れな子どもも含めると、およそ6万9千人にのぼる。製造業の盛んな東海・関東地方で特に増加が目立ち、愛知県では20年間で4倍以上に膨れ上がっているという。

「いつか来る課題」ではなく「今ある課題」

日本の人口が減り続けている以上、労働力として海外から人を迎え入れる流れは止まらない。

当然、その家族である子どもたちも一緒にやってくる。教室の中に日本語を母語としない子どもが座っているという状況は、もはや一部の地域だけの話ではなくなりつつある。

自分の勤務校でも、外国にルーツを持つ生徒は珍しい存在ではない。

そして、そうした生徒が授業の中で何に困っているのかを目の当たりにすると、これは「いつか来る課題」ではなく「今ここにある課題」なのだと痛感する。

教員に日本語教育の専門性を求めるのは酷である

こうした報道が出ると、「教員が日本語教育について研修を受ければいい」という声が出がちだが、正直なところ、それはかなり無理がある。

日本語教育は独立した専門領域であり、教科指導の片手間でどうにかなるものではない。国語科の教員だからといって日本語教育ができるわけでもない。

国語教育と日本語教育は、似ているようで根本的に異なる(故に微妙な緊張関係もありそうな感じが…)。

現場の教員はすでに教科指導、生徒指導、校務分掌、部活動と、手一杯の状態にある。そこにさらに「日本語支援もやってください」と言われたところで、質の高い支援ができるとは思えない。

やはり、日本語教育の専門性を持ったスタッフをきちんと配置するための予算措置が不可欠だろう。母語に通じた支援員の確保が課題だと記事にもあるが、課題であることは分かっていても、そこに予算が回ってこないというのが実態ではないだろうか。

ICTという「手札」を子どもたちに渡す

もう一つ、自分が可能性を感じているのは、生成AIをはじめとしたICTの活用である。

もちろん、AIが教員の代わりに日本語を教えてくれるわけではない。

しかし、子どもたちが自分の力で情報にアクセスするための「手札」を増やすという意味では、テクノロジーの力は大きい。翻訳ツールを使って教材の内容を母語で確認する、生成AIに分からない言葉の意味を母語で質問する、

音声入力で自分の考えをまず母語で言語化してから日本語に変換する。

こうした使い方は、すでに技術的には十分に可能になっている。

大事なのは、日本語ができないことが学びの機会そのものを奪ってしまわないようにすることだ。日本語が出来ないために、その子のことを無能扱いすることがないようにかなり気をつけるべきなのだ。

言葉の壁があっても、知りたいことに自分でたどり着ける手段があるかどうか。その手段を整えることは、専門スタッフの配置と並んで、学校が取り組める現実的な一歩だと思う。

「ことばの教育」の再定義

国語科の教員として考えると、この問題は「ことばの教育とは何か」という問いにもつながってくる。

教室の中に多様な言語的背景を持つ子どもたちがいる状態は、実は「ことば」について考えるきっかけにもなりうる。日本語を母語とする生徒にとっても、言語が一つではないという当たり前の事実に気づく経験は貴重だ。

でも、一方で、じゃあ、国語って何を教える科目なのだろう?日本語を母語としない子どもたちが教室にいる中で「日本語」ではなく「国語」を教えるとは?

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