ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

教員として、厳罰を望む

名古屋地裁が16日、懲役2年6カ月の判決を下したと報じられている。

digital.asahi.com

教員グループによる盗撮画像共有事件の、グループ開設者である元小学校教諭(42)に対してである。同業者として、この判決はむしろ甘いくらいだと感じてしまう自分がいる。

事件の輪郭

報道を要約すればこういう事件である。

5都道県の小中学校教員7人がSNS上で盗撮画像を共有するグループを作り、開設者であるこの元教諭は、校外学習先で9歳女児の下着を撮影してグループチャットに投稿した。

さらに、自宅では9〜12歳の女児のリコーダーなどに体液を付着させていた…という。被害児童は警察の把握分だけで75人以上、捜査はまだ続いているとされる。

記事は有料なのでこれ以上の紹介は差し控えるが、読んでいて気分が悪くなる類の事件である。

「全員教員だから漏れない」という思考の底

報道によれば、判決は、被告が「全員教員なのだから表沙汰になれば揃って職を失う、だから画像は流出しないはずだ」という趣旨の認識を持っていたことに対して、身勝手で酌量の余地はないと断じたという。

読みながら、自分は頭を抱えてしまった。

同じ教員として、この論理構造の「歪み」のほうがむしろ事件の本体に近いのではないかと思ってしまうのである。

つまり、この男は「教員という立場の重さ」を、口裏を合わせる共犯者の安心材料として利用していたわけである。教員であるという信頼を、児童を守る方向ではなく、自分たちの加害を守る方向に使った。教職という器を、底の抜けた状態で持ち運んでいた人間なのだ。

怖いのは、少なくとも本人たちの中では整合が取れてしまっていたことだろうと思う。

「教員だから逃げない」という社会的な信頼が、「教員だからバレない」に反転する瞬間があった。自分にも、どこかで反転しないという保証など、本来はどこにもない。反転しないなんて奢りを持ってしまった瞬間に危ういと感じる。

「距離感」の問題として

事件の規模や悪質さが桁違いなので、「距離感」という言葉で括るのが妥当かどうかはためらうところではある。

ただ、この事件が示している構図は、もう少し身近な水準でも起きうるものだろうと思うのである。

たとえば、生徒との個別のやり取りをプライベートのメッセンジャーで続ける。相談に乗るためにと自家用車に乗せる。服装や身体のことに個人的な感想を添える。そのどれも、かなり危ういことなのに、色々と残念ながら見聞きする事例である。

だが、踏み外した先には、制度や倫理の手が届かない領域が広がっているのである。

教職は、普通の仕事よりも相当に危ない場所にいる仕事なのだ、という自覚を、自分は自分に言い聞かせている。

こちらには権威があり、子どもは基本的に断れない。その場の空気を読んで「大丈夫です」と言わせてしまえる位置に、こちらは立っている。だからこそ、「踏み込まない」「一線を引く」「場所を選ぶ」という判断を、同僚の目のある場所で、何度でも積み上げていくしかない。

襟を糺すということ

厳罰を望む、と書いた。その気持ちに嘘はない。児童に対する性暴力は、教員であればなおのこと、重く裁かれるべきである。

ただ、判決の重さだけで現場が変わるとは思っていない。

この事件はたまたま捕まった7人の話ではなく、捕まらなかった無数の「踏み外し」が、普段の学校のどこかに埋まっているかもしれない話として受け取るべきだろう。自分自身を含めて、である。

同僚の何気ない言動に「それはやめた方がいい」と言えるか。

自分の振る舞いに「これはまずいのでは」と気づけるか。

そういう、地味で面倒な相互の監視を、研修の時間ではなく日常のほうに持つべきなのだ。

教職は、襟を糺し続けなければ、半歩の距離感を誤っただけで全てを失う仕事である。

児童からの信頼を一度裏切れば、その学校のすべての教員の信頼までもが目減りする。

それくらいの責任を我々は毎日抱えて通勤しているのだという自覚を持つべきなのだ。

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