
文科省が2026年4月から、東北大学・筑波大学・広島大学の11学部で、留学生を定員の5%まで超過して受け入れることを認めるという話が、今年2月にあった。国立大学は従来、定員を超過すると補助金カットなどのペナルティがあったから、そこに特例の枠組みを設けたということになる。
あわせて、2024年までは国立大学が留学生に課せる授業料は国内学生の1.2倍までに抑えられていたのだが、この制限も撤廃されている。東北大学は2027年度から留学生の年間授業料を90万円(現行から36万4,200円増)に、筑波大学は60万8,800円(7万3,000円増)に引き上げる方針とのことだ。
値上げは誰にとって「高い」のか
気になったのは、授業料の額面についてである。
年額90万円。国内の感覚では「結構な値上げだなぁ」と感じる数字だろう。36万円以上の上乗せは、日本の家庭にとっては決して小さくない。
ただ、円安の今、90万円はドル換算ではおおよそ6000ドル前後にしかならない。イギリスやオーストラリアの主要大学の留学生向け授業料が年間200〜400万円クラスも珍しくないことを考えれば、むしろ競争力のある水準という見方もできるのだろうと思う。
もちろん逆の見方もできる。もともと良心的だった日本の国立大学の授業料水準を崩す値上げだ、新興国の家計には重すぎる…そうした批判もありうる。
このあたりは単純には判断できない。
ただ「日本円の感覚で値上げ幅が大きい=海外の受験生にも重荷」とは限らないという視点は、持っておいたほうがいいだろうと思う。円安という外部環境は、使い方次第で日本の大学の側に追い風にもなりうるのだ。
学問の場と多様性
海外からの留学生を受け入れることに対して、率直に拒絶反応を示す声があることは知っている。「日本人の席が奪われる」という主張をしたくなる気持ちもわからなくはない。
ただ、そもそも学問の場というのは、多様性が保障されていたほうがいいのではないか、と自分は思うのである。
特に、今自分の目の前にいる高校生たちが社会に出る頃を考えたとき、彼ら・彼女らが生きる社会は、今以上に多様な背景の人々と協働する場面が増えていくはずだ。
これは理想論ではなく、人口動態からしてかなり現実的な予測だろう。
そうした時代に、大学という学びの場で、いろいろな国から来た、いろいろなバックグラウンドを持つ学生と机を並べて議論する経験を持てるかどうか。
これは、卒業後のキャリアや人生において、じわじわと効いてくる差になってくると、自分は思っている。
制度を作って終わり、ではない
とはいえ、である。
特例枠を作れば留学生が自動的に集まって、自動的に学びが豊かになる、というような単純な話ではない。日本語サポート、住居、メンタルヘルス、卒業後の就職支援…受け入れ側の体制が貧弱なままだと、せっかく来てくれた学生に辛い思いをさせるだけで終わってしまう。
そうなれば、かえって日本の評判を落とすことにもなりかねない。
数を増やすことと、学びの質を担保することは、本来セットでなければならないはずなのだ。
そこを混同して「まずは数だ」で走ってしまうと、これまでの日本のいくつかの「国際化」政策と同じ轍を踏むことになる。
自分にできることといえば、目の前の生徒たちが、いずれそういう多様な場に飛び込んだときに萎縮しないだけの言葉の力と、他者と向き合う姿勢を身につけてくれるよう、日々の授業を積み重ねることくらいなのだろう。
制度の話を遠い大学の話として眺めるのではなく、そこにつながる準備を国語科として考えていきたいところである。




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