
教育新聞の記事を読んでいて、ひとつ引っかかるものがあった。
内容は有料記事なので具体には触れないが、記事の主張の一点として「リソースを投下する必要性がある」という趣旨のことが述べられていた点だけ紹介しておきたい。
「リソースを投下すべし」に反対する人はいない
教育の文脈で「もっとリソースを投下すべきだ」という主張は、まあ、誰からも反対されにくい類のものである。
現場の教員として、人が足りない、時間が足りない、物が足りない、お金が足りないという状況は、日々の肌感覚として身に染みている。自分の立場からしても、「投下してくれるなら、ありがたい」と言うほかない。
だから、こういう主張は総論としては通りやすい。でも、現実の難しさはある。
「どこまでやるか」という問い
どんな政策でも、どんな改革でも、無限のリソースがあるわけではない。ある目的のためにリソースを投下するということは、別のどこかから引き剥がしてくるということでもあるし、「ここまでやれば十分」というラインをどこかに引かなければ、際限がなくなる。
要するに、どこまでやるか、どこでふんぎりを付けるかという意思決定の問題に帰着するのではないかと思う。
抽象的な主張に頷くのは簡単だ。でも、「誰の・どの予算を削って」「いつまでに」「どの範囲に」投下するのかと具体に落とした瞬間、議論は急に泥臭くなる。
そこで腰が引けて、「総論賛成・各論反対」で前に進まない話を、この仕事をしているといくつも見てきた。
こちら側のふんぎり
現場の側にいても同じ問題はある。
何かを新しく始めようとすると、必ず「で、既存の業務のどこを削るの?」という問いが返ってくる。
削る決断ができないなら、新しいことはただの上積みになってしまうのである。
「投下してくれ」と声を上げるこちら側にも、「この業務は手放していい」「ここはもう諦める」とふんぎりを付ける覚悟が問われる。
それなしに「リソースをくれ」とだけ言っていても、たぶん話は動かない。
まあ…この「ふんぎり」を付ける力こそ、政策にも現場にも、いちばん足りていないものなのかもしれないなぁと、記事を読んで改めて考えたのである。




このブログについて
