
先日、次期学習指導要領のワーキンググループから出ている資料に関して書いた。
その続きである。ただし、ワーキンググループの議事録などはまだ追いかけきれていないところがあるので、ここから書くことは多分に憶測も含む。あらかじめ留保したうえで、現場の一教員として感じていることを並べてみたい。
ワーキンググループの参加者を低く見積もるのは違うだろう
SNSを眺めていると、議論の方向性そのものへの違和感とは別に、「現場のことを分かっていない」「子どものことを見ていない」という論立てで批判するコメントも少なからず目にする。ただ、これはたぶん的外れになる可能性が高い。
ワーキンググループの参加者の能力を不当に低く見積もる必要はない。文科省に関しても、いろいろな形で現場から情報を吸い上げているのは事実だし、自分の知っている限りでは、現場の状況にかなり解像度の高い人は珍しくない印象がある。少なくとも「現場を見ていないから的外れな議論をしている」という単純な図式で切ってしまえる話ではないだろう。
結局のところ、教育政策は政治である。何に優先度を置き、どこからの働きかけで方向性が動くのか、というところで綱引きがあるのは間違いない。
現場としては「もう少し意見を聞いてくれよ」と思うのは正直なところなのだけど、一方で現場の意見「だけ」を聞いていたら、それはそれで這いずり回ることになる…という感覚もある。できるだけ公正な判断を働かせようとはしているのだろう、とは思いたい。
何でもかんでも金科玉条として受け取る必要はないけれども、なぜこういう論点が今出てくるのか、というところに少しは想像力を働かせたほうが、議論は健全になるんじゃなかろうか。
国語の中だけでは決まらない話
そして、もう一つ前提として強調しておきたいのは、どの科目の何を優先するかという話は、国語科の中だけでは決まらないということだ。
授業時数は有限である。
当然ながら、他教科・他科目との時数の奪い合いの中で組まれている。だから「国語をこのぐらいの単位数でやればいいじゃないか」という主張がしばしば出てくるんだけれども、これは他の科目とのバランスの中で本当に成立する話なのか、というと甚だ疑問である。
国語の中の議論として完結させていると見えなくなることだが、教育課程は全体の中で配分されている。
総合的な探究の時間、情報、家庭、保健体育…どれも単位数を維持・確保するために議論を重ねているはずだ。
そうした全体図の中で、国語が何単位を確保するか、という話があり、その中でさらに何を優先して扱うか、という話があるのである。
「文学を扱いたい」の前に
ここで一つ、これは自戒を込めて言っておきたいのだけれども、現場で文学教材を扱いたいという声は根強いが、これの主張の妥当性だ。
自分も国語科の教員の端くれとして、文学的な素材で育てられる力の重要性は理解しているつもりだ。
ただ、じゃあ実際に現場の授業で何が扱われているかというと、ほぼ「定番教材」しかやっていない印象は強い。
羅生門、山月記、こころ、舞姫…そのあたりが議論の俎上に乗ってくるけれども、それ以外で熱量を持って扱われている文学作品が果たしてどれだけあるか、というのは、かなり怪しい状況だと感じている。
誤解のないように補足しておくと、教科書のほうは改訂のたびに新しい素材をかなり投入している。編集委員の苦労の跡はちゃんと見えるのだ。
けれども、現場の実践として、その新しい素材が定番教材と同じだけの熱量で扱われているか、と問われると、これは正直に言って怪しい。
「高校を卒業するのだから、これくらいは読んでおいたほうがいい」という発想は、教員や大人のノスタルジーに過ぎない部分も大きいんじゃないかと、自戒も込めて思っている。他の科目と授業時数を奪い合っている中では、これは説得力を欠くんじゃなかろうか。
結局、授業内容で勝負するしかないのだろう
生成AI時代の到来によって、実用的な文章や論理的な文章の扱い方、場合によっては国語の中でもっと無味乾燥にプログラミング的な言語の扱い方を…という話題が出てきても、もうおかしくない状況だと思っている。
近現代と古典の両方の文学的な素材「だけ」を無条件に特権的に扱うことは、もう難しいんじゃなかろうか。心身の成長や社会の変化を見ながら、いろいろな立場を調和させて考えていくしかないのだろう。
個人的には、授業数を細切れにするよりは、4単位時間で「国語総合」のような形でまとめて持たせてもらったほうが扱いやすい、とは思う。
でも、そういう形で国語の授業を渡されていたときに、教える内容がどうだったか。その結果、現場が信頼されない、というような形で突きつけられているのが今の状況なんじゃなかろうか。
学習指導要領そのものに自分自身が納得しているかというと、これも微妙なところである。であれば結局、授業の内容そのもので主張していくしか、現場の教員に残された手段はないのかもしれない…と、ぼんやり思っているところである。
いやあ…何もかも上手く行かないなあとやけっぱちにもなりたくなる。




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