
ある記事を読んだ。FNNプライムオンラインに掲載されていた、AIと子どもの「気持ち」をめぐる論考だ。
論旨は概ねこういうことだろうと思う。人の気持ちには正解がない。だからこそ、自分なりに悩み、迷い、振り返ることに意味がある。そこをまるごとAIに預けてしまえば、人を思う力は育たない…。歴史上の人物の感情をAIが「再現」してしまう危うさや、赤ちゃんの泣き声判定アプリの話題にも触れられていて、現場感覚としては自分も大筋で同意するところがある。
自分が気になっているのは、もう少し別の角度の話だ
元記事の主題は「AIには人の気持ちはわからない」ということだった。それはその通りなのだが、自分が読みながら考えていたのは、それとはまた別の不安である。
AIと長く対話していると、なんとなく、自分の感情がだんだん平坦になっていく感覚があるのだ。
AIは基本的にこちらを否定してこない。多少乱暴に書いても、適度に整理して、適度に共感して、適度に深掘りの問いを返してくる。便利だ。怒っているときに人にぶつける前に、AIに話して整える、ということもできる。これは間違いなく良い面だろうと思う。
ただ、そうやって対話を重ねていくと、何かを書こうとしたときの「波立ち」のようなものが、いつのまにかするすると凪いでしまう。これは、AIのいわゆる迎合性(sycophancy)の影響なのか、それとも単に相手が機械であることによるものなのか…正直、自分にはまだ切り分けられない。研究としてどこまで知見があるのかも、自分は把握できていない。
波立たないことは、関係を結ばないことかもしれない
ただ、感覚として一つ書いておきたいのは、「優しく応答されること」が積み重なる怖さである。
人間関係というのは本来、波立ちと折り合いの繰り返しのなかで結ばれていくものだろうと思う。誤解し、戸惑い、それでももう一度向き合おうとすること。そのプロセスの中で関係が立ち上がってくる。
AIに気持ちのやり取りを預けると、「向き合う前のクッション」がやけに分厚くなる。クッションは便利だが、クッション越しに人を見続けていたら、相手の輪郭はいつまでもぼやけたままなのではないだろうか。
自分の感情に対してAIが先回りして整えてしまう。すると、相手に対しても本気で向き合わないままで済んでしまう。…これはちょっと、マズいのかもしれない、と思う瞬間がある。
子どもとAIの議論を、感情面まで広げる
子どもとAIをめぐる議論は、いま、
- 不正利用(読書感想文の丸写し、宿題の代行)
- フェイクや幻覚への対処、情報のリテラシー
- 著作権・引用の作法
このあたりに集中している。もちろん大事な論点で、自分も授業の中で扱っている。
しかし、それと並行して、感情面の議論ももう少し丁寧にしておきたいところだ。
AIに愚痴を聞いてもらうこと、AIに励ましてもらうこと、AIに「相手はどう思っていると思う?」と尋ねること。これらは「ズル」ではないから、不正利用の枠組みには引っかからない。検出もできない。
けれど、これを長く続けたときに、人と本気で向き合うときの感情の解像度のようなものが、少しずつ落ちていく…可能性はあるのではないか。少なくとも、自分自身の使い方を振り返って、その怖さは感じる。
であれば、子どもに伝える際にも、「AIを不正に使うな」だけでなく、「気持ちまでAIに預けると、自分の感情がいつのまにか平坦になっているかもしれない」という伝え方が要るのだろうと思う。
AIの活用そのものを否定する話ではない。
自分は毎日使う側だ。便利さの裏で、自分の感情が静かに平坦化していくような感覚があるとしたら、まずはそれを「自分の問題」として引き受けたうえで、子どもに渡す言葉を探さなければならない…と思っている。
気持ちまで効率化していいのか、という問いを、まずは自分自身に向けたいところだ。




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