
飯田一史「『若者がバカになるから』ではなかった…『北欧諸国のデジタル教科書離れ』のウラにある深すぎる事情」を読んだ。
タイトルはいつもの煽り調なのだが*1、中身の議論は冷静に検討する価値がある。
「紙か、デジタルか」の極論に振れがちな議論
デジタル教科書をめぐる議論は、いつも極端な方向に振れがちである。「紙しか認めない」か「全部デジタルにすべきだ」か。
実際の教育現場で語られているのは、生徒の実態や学校の状況に合わせて両者を組み合わせていくという、もっと地味で実務的な話のはずだ。ところが保護者の目に届くような形に整えると、決まってセンセーショナルな見出しに化ける。そして煽った話に乗ってしまうと、見えなくなることがある。
記事が論じているアクセシビリティの問題こそ、そうやって見えなくなりがちな論点の代表だろうと思うのである。
議論の核は「紙か、デジタルか」ではない
記事の北欧の話で重要なのは、紙に回帰したという表面的な動きではなく、北欧諸国がディスレクシアのある子どもたちに対し、読み上げや拡大表示などのデジタルツールを学習や試験で日常的に使えるようにしているという前提の方だ。
PISAで北欧の除外率が高かった話も、「成績ごまかし」ではなく「いつものアクセシビリティ対応が使えない試験は、その子たちにとって公正なテストではない」と判断したから、という解釈は考えさせられる。
テストの形式そのものが、ある特性の子どもたちを排除する設計になっていたのではないか、という問いがそこにはある。
自分の教室への跳ね返り
デジタル教科書そのものの是非については、自分はもうしばらく現場で実践と検証を重ねないと判断できない。ここで論じたいのはそこではない。
ただ、「紙か、デジタルか」を入口にした議論は、ほぼ必ずアクセシビリティの観点を置き去りにするような気がしている。そして…置き去りにされるのは、いつも生徒たちなのである。
合理的配慮という言葉はずいぶん広まった。
だが実態として、自分の教室はどこまでインクルーシブになっているだろうか。
定期試験のレイアウトはあれでよかったのか。ICT端末での読み上げを許容する選択肢を、生徒側に開けていない状況で配慮とは、と思うこともある。
教材選びの段階で、紙でしかアクセスできない情報を当然のように出していないか。漢字テストの形式は、本当に「漢字の力」を測っているのか、それとも「手書きで漢字を書ける生徒の能力」を測っているだけではないか…。
問いはいくらでも出てくる。そしてその問いの多くは、自分自身の授業設計に跳ね返ってくる。
紙とデジタルを対立させる議論よりも、自分の教室がどの程度の多様性を引き受けられているかを点検する議論のほうが、おそらくよほど切実だろうと思う。
「現状よりはもう一歩踏み込んで」と言うとき、その一歩は、文部科学省や教育委員会の判断を待つ話ではなく、自分の授業の中で何をどう変えるかという、地味でしんどい話なのだろう。
*1:プレジデントの見出しは編集部側で付けているという話を以前どこかで読んだ記憶がある。記事著者の責任ではない部分も大きいだろうと思う。




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