
文科省が特別活動WGの第6回会合で、キャリア・パスポートを発展的に見直す方針を打ち出したという。
例示資料を廃止し、クラウド上での記録の蓄積を基本とし、校種間の引き継ぎは求めない、という方向性らしい。
正直に言って、自分はこれまでの学習指導要領の流れには概ね賛成派である。特別活動を要にして探究と教科をつないでいく構図も、「学びに向かう力、人間性等」の整理も、現場で活かしどころは多いと感じている。
だからこれは「学習指導要領の総体に反対」という話ではない。ただ、キャリア・パスポートだけは、本当に最初から最後までよく分からないままなのである。
理屈は分かるが、実効性が分からない
キャリア教育の必要性は分かる。学んだことを振り返って次につなげるリフレクションの必要性も分かる。
デジタル環境で自分の学びの履歴をポートフォリオ化していくという発想も、別段おかしいとは思わない。むしろ、そこを丁寧にやれるなら、生徒の学びにとって意味のあることだろうと思っている。
問題は、その個別の理屈を寄せ集めて「キャリア・パスポート」という一つの様式に着地させた瞬間、現場の実装が一気に怪しくなる、というところにある。
「デジタル活用を促す」の前にあるもの
クラウド上で個人が記録を蓄積して俯瞰的に振り返る、という方向自体はそうだろうと思う。紙でやるよりよほどいい。
しかし、どうしても引っかかるのは、そのデジタル基盤が学校種をまたいで本当に機能しているのか、という一点である。
小学校で書いたものを中学校で読み返す、中学校のデータを高校で開く。そういう当たり前のことが、今の自治体ごと・設置者ごとに分断されたクラウド環境で、どこまでできているのか*1。
少なくとも自分の感覚では、小→中の段階ですでに苦しい。中→高はもっと苦しい。
データの引き継ぎが事実上できないから紙でやる、という選択は、率直に言って悪手だと思っている。
時間ばかりかかる。なくす。蓄積されない。
「キャリア・パスポートの形骸化」という指摘が出るたびに、自分はその根っこにあるのは、この基盤の不在なのではないかと思ってしまうのである。
形骸化からの脱却、その方向はよいとして
「書くことが目的になっている」「効果的な活用に至っていない」という現場感覚は、自分の実感ともほぼ重なる。
例示資料に依拠しなくてもよい、という見直しは、その意味で方向としては悪くない。ポートフォリオを対話のツールとして位置付け直すという発想自体も、キャリア教育研究の中で繰り返し言われてきたところだろうと思う。
ただ、形骸化の原因が「例示資料に縛られすぎていた」ことなのか、それとも「校種間で接続するデジタル基盤がないまま運用を始めてしまったこと」なのか、ここの診断は分けて考えたいところだ。
前者を直しても後者が残るなら、結局現場は「自由になりました、でも何を残しても次には届きません」という状態に置かれる。それは形骸化の別バージョンに過ぎないのではないか…と思う。
順番が逆ではないか、という素朴な疑問
キャリア教育の理念に反対する気はない。
リフレクションを大事にしたいという発想にも賛成する。それでも、まずは校種をまたいで生徒の学びの履歴を持ち運べるデジタル基盤を、国と自治体が責任を持って整える。その順番が先なのではないかと、自分はずっと思っている。
基盤がないままに「キャリア・パスポートを活用しなさい」と言われ、結局紙で帳尻を合わせ、引き継がれずに消えていく。
この十年弱、そういう運用を見てきた現場の感覚としては、今回の見直しが本当に何を変えるのか…と思うのである。
*1:小中で同じ自治体のGoogle WorkspaceやMicrosoft 365を使っていても、高校で別ドメインに移れば原則としてデータは引き継がれない。ここの整理が全国規模で進んでいるとは、自分の見聞きする範囲では思えない。




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