ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

【書評】教室で「物語」を読む意味が少し分かるかも?

絶賛、「山月記」に混乱中。

混乱しているけれども自分の中にある程度、イメージがあるのはこの本を「山月記」の前に読むことができていたから。

人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)

人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)

 

安心と安定のちくまプリマ―。

この本はとても面白かった。この手の本だと「小説」をいかに深読みできるのかということを肩に力を言えれば力説する手の本が多くて正直、あまり文学に興味のない自分にとっては「疲れる」本が多かった。

でも、この本は

「ストーリー」は人間の認知に組みこまれたひとつのフォーマット(認知形式)です。

というところから話を始める「物語論」であり、決してこじつけをするための「深読み」の解説書ではなかったのです。

「物語」とは何かと考えたことありますか?

この本のポイントは「小説も求める」ではなく「物語を求める」という点に集約されている。

つまり、この本は書かれている文章をありがたがったり書いた人物の意図を深読みしたりして面白がったりすることではなく、それぞれの個人がどのように世界を理解して、どのような形で自分たちを納得させようとするのか、そのメカニズムについて説明することに意図がある。

ストーリーのせいで苦しむのは、自分が「物語る動物」であるという自覚がないからなのです。

と序盤からいきなり厳しく普通の人の感覚を一刀両断にするところからこの本は始まっています。

「物語る動物」と言われても、そもそも「物語る」ってなんなのかということをあまり真剣に考える人は少ないでしょう。

自分だって国語の教員なんてけったいなものをやっているけど、小説をやるとき以外に意識しているのかと言われると怪しいものである。

しかし、そんな「物語る」ことへの無自覚についてを本書は様々な角度から批判的に検討を加えていく。

例えば、ストーリーをでっちあげてしまうことについて

「説明が正しいかどうか」よりも、また「その問が妥当かどうか」よりも、僕たちはともすると、「説明があるかどうか」のほうを重視してしまう。ストーリーでそこを強引に説明してしまうことがあるのです。

と、ついつい因果関係がないものにもストーリーを見出して単純に納得してしまいたがる人間の感覚であると教えてくれる。

なぜ「物語」を教室で読まなければならないのか

 

そんなことを考えていると、何となく「教室で」物語を読む意味の一端を捕まえられそうな気分がしてきた。

例えば、今、やっている「山月記」だけど、一読しただけで無批判にあの話を受け入れるのであれば、李徴が虎になった理由は「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」ということに納得するだけで終わるのだろう。あたかもそれが高校生の自分が自分のことを思い通りに出来ないことにフラストレーションを感じつつも自分の怠慢を自覚しているのと同じように。

だから、初発の感想を不用意に書かせたら「李徴の気持ちが分かる」が多く並ぶわけだけど、その「李徴の気持ち」の内実というものが、生徒によって全然バラバラである。結局、それぞれが李徴の語りから自分にとって都合の良い「物語」を「物語っている」だけであって*1、そこでは本当の「李徴の気持ち」なんて分かろうなんて思っていないのである。各々が好きな「物語り」をしているだけであって、お互いに無関心。そりゃあ、李徴も虎になるわな。

冗談はともかく、何もしない考えないで小説を読んだだけで「読めた」「分かった」ということは、非常に個人的な「物語り」に満足しているだけだと感じる。特に生徒の場合はなおさら。

個人的な読書であれば、好きな「物語」を読めば十分であると思うし、巧拙の差はあろうとそれぞれが好きな物語を持つことはできるだろうと思う。

しかし、それだけで不十分だと考えられる視点となるのが、本書の作者の指摘だと思う。

人は「自分がなにを知らないか」を知らないで、それでも生きています。「お前はそれを知らないのだ」と、人や状況に教えてもらわなければ、「自分はそれを知らない」ということを知ることすら叶わない。そして厄介なことに、「自分がなにを知らないか」を教えてくれるのはときとして、「お前なんかどうせ拾われた子だろう」なんていう「心ない」言葉だったりするのです。

李徴の気持ちをわかったつもりになる「物語」は読めるかもしれない。しかし、その物語が一面的であることや自分勝手であることにはなかなか気づかない。そうやって物語を十分に考えることなく物語り続けることによって、自分が本当に追い詰められたときに自分のことを語りなおす可能性について気づかなくなってしまうのではないか。

「山月記」のような小説は様々な可能性で読むことが、物語ることができる。だからこそ、その「物語り」で自分がどんなことに納得したいのかということを自覚させ、自分とはどのような人間であるのかを生徒に考えさせ、そして考え方をしなやかく強くすること……それができたら小説を協働して読むことの意味もあるんじゃないかな。

「自分である」ということ(=アイデンティティ)は、時系列のなかで一貫性を持つものとして構成されているひとつの「仮定」である。

この「仮定」を問い直すことができるのが、小説を教室で読むということなのではないかな。

ま…ぼんやりとしているのですがまだだま。

安易な答えから脱出

この本は徹底的に人が「物語る」とは何かということを説明している。そして、その「物語る」という行為が無意識のうちに色々なものに凝り固まっていたり決して合理的な判断ではなかったりすることを紐解き、そんな不合理な「物語」に我々が苦しむことがあるのだということを説明している。

物語のせいで「人間は(自分は)なんのために生きているのか?」という問が立ち上がる。安易な答に飛びつけば裏切られる。誠実な人だったら、答が出せずに余計苦しい。答なんて出なくて当然です。定義の曖昧な贋の問ですから。しかし、ものすごくつらい思いをしている人、苦しい目にあった人にとっては、それでも切実な問なのです。

非常に「物語」を人々が求めることに対して厳しく、そして優しい分析であると思う。

生きていく上で色々な出来事が起こる。そしてそれは決して自分たちにとって都合の良いことばかりではない。嫌なこと、理不尽なことであればそれに対して納得するだけの理由が欲しくなるものだ。

ただ、答えを安易に作り出そうとしても、それは往々にして自分にとって都合の良い解釈か不必要な自責になる。「それらしさ」ということに満足するということは非常に魅力的だから。しかし、そんな一時しのぎな納得に満足していられないのも、また事実だろう。

*1:李徴の語り自身が李徴の「物語り」であって、事実なのかどうかも問題だ。それこそ都合の良いように「物語っている」のであり、その物語をさらに読者が「物語る」という構造もなかなか面白い。そう考えると「羅生門」は三人称の語りであって語り手はでしゃばりだけど、李徴の語りほど問題にはならないわけだから、教材としては高校一年よりも高校二年の方が難しいんだなぁと思ったりもする。「こころ」や「舞姫」になると回想による手紙や手記になるのでさらに構造は複雑なわけだし。定番教材も上手く配列されているものだなぁ。

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