珍しく、三連休がフルに休めたこともあって少し積読を消化した。今回は少し前から手を付けていたこの本。
自分は文学については専門的な教養が完全に欠落している。だから、小説の授業で何を教えるべきなのかということは常に手探りである。
むむ……あまり自分の知識が更新されていないぞ…。
まあ、それはともかく、こうして「小説」の価値や意義を語る言葉を色々と参考にして蓄えることが、まずは授業に必要なことだと感じているのです。
自分にとっての価値を
この本の冒頭部分では、以下のようなことが書かれている。
小説は、君が気味であることにとって重要なものを与えてくれる。人と比べてどうだとか、情報量の多い少ないとか、そんなミミッチイことじゃない。小説は君がものを考える幅を広げ、人を見つめる力を養い、独自の判断力や価値観を作り上げるのを助ける。
何より、小説には、君が君について考えるヒントがある。(P.8)
本書のエッセンスはすべてここの集約されていると言っていい。
本書においては、様々な形で文学や小説を定義したり、具体的な小説を引用しながら例に挙げ、その意味を分析していたりするが、そのすべての分析は最終的に、上の引用部の内容に繋がっていく。
つまり、小説を「読む」という行為が、他の誰でもなく、「自分」にとっての意味を確かめ、手に入れていくこと、そして自分自身を理解していくことの良さを説くのである。これは本書の結論に近い部分でも同じように繰り返される。
小説を読むという経験は、「自分は一人ではない」ということの本当の意味を絶えず君に伝えているのだ。
君のように感じ、苦しみ、喜び、怒り、うんざりするのは、君一人ではない、という意味も、小説にはある。
そして同時に、「すべての人が君と同じように『自分』なのだ」という意味での「自分は一人ではない」ということも、小説を読む経験は、君に伝えるのだ。
それが受け止められたとき、君は知らないうちに、君という人間の幅を大きく広げている(PP.138-139)
小説を読むという行為を通じて、様々なことを経験する。
その経験の一つ一つが、誰かにとっての良し悪しではなく、自分にとっての意味であると言われるのは、自分のように「文学」に疎遠さを感じている人間にとっては、随分、勇気づけられるコメントだ。
自分自身も言われ続けて来たし、生徒にも言ってしまうのだけど、「自由に読めばいい」というセリフは、どうやって読んだらいいか、何を読んだらいいか分からない人間にとってはかえってプレッシャーである。「自由に読んでいい」と言われながら、割と窮屈な範囲で意見を持たないと白い目で見られたりすることもあり……なかなか難しい。
誰かの目を気にしながら、小説を読む必要があるのだろうか……それは教室で小説を課題として取り組ませる、国語の授業が何を教えているのかということとも繋がって来そうで、今の自分に明確に良し悪しを判断できる材料はない。
ただ、他人の目を気にしながら物語を読むのはツマラナイという気持ちもあるし、他者に共有できる可能性のない独りよがりな読みを教室で取り上げる積極的な理由もないし、結局、困っているのだけど……。
しかし、本書のように「自分にとっての意味」という面を丁寧に掘り下げることで、自分の可能性を拡げられるという視点は、生徒に語ってもいいことかもしれないと感じる。
物語を生きる糧に
以前に『人はなぜ物語を求めるのか』を紹介した。
その時は「物語」を物語ること、語りなおせることの良さを感じていたし、小説を教室で扱っていくことで、そういう自分自身で物語ることができるようになる力を期待したいと思った。
今回は、そういう側面に加えて、「自分にとっての物語の経験」の力をもっと信じてよいのではないかと感じた。たとえば、それがどこに繋がるのかといえば、リーディングワークショップでのカンファランスの言葉のかけ方も変わるんじゃないかと思う。
自分のカンファランスの仕方だとどうも他人ごとな聞き方をしていたんじゃないか、もっと読み手の言いたいこと、個人的な思いを引き出してもいいんじゃないかという気持ちもする。
ただ、プライバシーの問題もあり、簡単に根掘り葉掘り聞くものでもない。個人的な思いを個人の中に蓄えるから意味がある面もあるのだから。
もっと肩の力を抜いて、読むこと、語ることのよさを伝えられないものかとぼんやりと思うのである。