しばらく授業もないのでブログも手抜きモード。
こんな記事を見た。
私は国語に苦手意識があります。 なかでも、物語文は大の苦手。着地が見えない。正解が分からない。
海の命 - 小学校の先生を120%楽しむ毎日
この言葉は非常によくわかる。
国語の教員らしきことをやっている自分であっても、やっぱり落としどころはいつでも迷うし、何を教えるべきなのかについても悩む。
定番教材の問題もあるし、その定番教材だって研究者からすれば「変だ!誤っている!」と糾弾されることは少なからずある。
ま、この本の内容が妥当かどうかについては、専門家ではないので反論はしませんが、こういう視点があるくらいだから、難しいんです、国語。
それについて思うことを少しだけ
なんとなく居心地の悪い文学の授業
国語の教員がこんなことを言ってはアレだけど、自分は文学は全くの専門外なので(そりゃあ、大学、大学院と授業や演習は受けているけど)、いつも文学の扱い方には困る。
授業の中でどうやって扱われてきたかということや実践史ということについては知識としてはあるけど、それをどうやって受け止めればいいかがやっぱり肝心なところで消化不良を起こす。
たとえば「出口論争」のような有名な議論があるけど、言いたいことや問題意識がわかる一方で、「だから何なんだよ……」と腹の底ではまったくどーでもいいと思っている本音があったりする。
暴論だと自分でも自覚はしているけど、自分の問題意識や興味関心がそこにないので、やっぱり上手く消化できない。
だから、"Reading Zone"の文学をめぐる議論もうまく読めない。

- 作者: Nancie Atwell,Anne Atwell Merkel
- 出版社/メーカー: Scholastic Teaching Resources
- 発売日: 2016/11/16
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この本の中だと詩を使って文芸批評について教えたりすることやフィクションを読むこととの意味について力説したりしているのだけど、何ともうまく呑み込めない。
だから、いつでも文学の授業をやるときは、何をゴールにすべきかに苦しんでしまう。
中途半端な文学っぽい何かはやりたくない
自分が文学畑ではないということが大きいけど、したり顔で大学でやるような文学まがいの講釈を垂れるような授業はやりたくないなぁという感覚はある。
自分ができないということもあるけど、高校時代の自分がそれに対してえらくつまらなかった思い出しかないので、自分がそれをやりたくはないなぁという思いもあり…(国語の先生だからと言って文学が好きだとは限らないということは声高に主張したい)。
生徒との知識量の差に頼って、色々なことを投げ込めば、生徒を感心させたり納得させたりするのは、それほど難しい話ではないのだけど、だからといってそれで何があるんだって話になってしまう。
多くの人は高校時代に「羅生門」を読んでいるはずだけど、その「羅生門」について覚えている人はどれだけいるだろうか、という話である。
まあ、評論であっても同じなんだけど。小説に輪をかけて高校時代に評論で何を読んだかなんて覚えていない可能性の方が高いしね。
どう接すればいいのだろうか
自分の中ではまだ答えは出ない。
ただ、やっぱり根本的に大して好きでもないから、評論と同じくらい「素材」としてしか見ていないから、感情がどうのこうのとか文化的な価値がどうのこうのだとかを教えようとは思わない。
話し合わせて面白そうなら好きに議論させるし、読み取りをさせたほうが深まりがありそうならば、読み取りを指導するし……という程度の考え方をしている。
まあ、それだけでは困るんだけど……という面もわかるのだけど、それ以上の捉え方が現状の自分にはやっぱり難しい。
だから、素材として文学を与え、それに対して食いついて言ってくれるのであれば、誤読が起こってもよいと思っているし、その誤読は慌てて解決しなくても大して問題にはならないだろうと思っている。それよりは色々なことを自分たちで引っかかって考えてくれたほうが有意義だと思っている。
でも、そんなことをしていたら文学に対する冒涜だと文句言われることもあるんです。
まあ、冒涜かもしれないけど、冒涜しないで済ませるにはガラス棚の中に大切にしまって汚されないようにしまっておくしかないんじゃないでしょうかね。