授業をやってきてやっと半年以上が経ち、しつこく話すことと書くことを生徒に求めてやりつづけてきた。
国語の授業なのだから、授業の中で教員よりも生徒自身がたくさん読んで、書いて、話すことが大切なのだという点を譲らないで、少なくてどうにもならない授業をやりつづけてきたが……ここに来て、少しは変化が見えてきた気もする。
自分たちで面白がれる
今、取り組んでいるのが「羅生門」であるが、これは生徒の日常からはかなり遠い。だから、よほど我慢強くないと、あまり面白くないし、時間をかけて読もうとは思わない。
ある意味で、こういう「日常」から遠く離れたものを、どれだけ自力で楽しめるようになるかが、国語の授業の一つの成果である。言葉で書かれている以上は、手順を踏んで少しずつ読み進めて行けるのであれば、どこかで楽しく読める可能性を持っているのである。楽しくなくても、自分にとっての意味を自分の言葉で語ることが出来れば十分なのである。
そもそも「羅生門」を読んで、何かを語り合う……なんて、大人にやらせようとしたって、そうそう面白いものなんてできない。上滑りになって終わる。
そういうことをよく分かった上で、それでも自分たちで何かをちゃんと物語れないのかと思い、時間をかけて読み方や話し方を毎回の授業で少しずつ生徒に介入してきたのである。
なかなか辛抱強くやらないといけない。
でも、色々な授業を見てきて思うが、子どもたちがどれだけのことを考え、どれほどの成果を発表できるのかということに、授業する方がキャップをしてはいけないのである。
何が楽しくて、問答方式で下人の服装や羅生門の石段の数をやりとりしなきゃならんのか。そういうことを板書して問答しても何も残らない。根拠が読めるということは大切である。しかし、根拠を読むということと、ただの一斉授業の問答では意味が違う。
意味のない問答は面白くない。
自分たちで面白がれるだけの手札を渡したいのである。
着かず離れず……
話合いで自分たちで読み深めることを信じて、生徒に委ねるのであれば、不用意に無駄な介入はしないでおきたい。
でも、手綱を手放して放置するということではない。自力で読めるようで、自力で読めないことだらけだから、色々な方略を生徒に手渡していくのである。それでいて、何かを単純化していい加減に理解したり、思考を停止してバカの一つ覚えに陥ったりしないようにするために、ふらりと子どもたちの話合いに混ざったりしながら、少しずつ話を進めていくのである。
ファシリテートなんて親切なものではなく、読まざるを得ない状況に囲い込んでいるだけである。
沈黙してしまう場面もあるし、痛ましいと感じる場面もある。
ただ、それは普段のクラスで「臭い物に蓋をする」ように見えないようにしていることを顕在化させているに過ぎない。結局、誤魔化しがきかなくなるのは、遅かれ早かれである。
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色々なことをガイドして、介入していくものの、少しずつ自分たちで独り立ちしていけるように……。
あまり学力は関係ないのである。やれると思って委ねて、支援して、やらせてみることで、実現して到達できるところがある。
半年、我慢を続けて……やっと、少しつかまり立ちができそうな気配が感じられるようなところまできた。
さあ、ここからもっとペースを上げていこう。