ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

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生徒に主導権を委ねる覚悟

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こんな記事が溝上慎一先生のサイトに挙がっていた。

smizok.net

溝上先生のサイトの記事にしては珍しく歯切れの悪さのある記事である。いつものように圧倒的な理論の確かさで説得するというような感じではなく、理論と実践のズレの大きさに苦心しているような感じがある。

教育学の、しかもアクティブラーニングの第一人者がここまで苦心しているということの意味が重いように思う。さて、凡夫たる我々はどこまでやれるのだろう?

「それでも」を引き受ける覚悟

珍しく理論ではなく感情論的な言い回しをしているように見えるのが以下の部分だ。

実態や現実を目の当たりにして、ひるみながらも、自身の状況と照らし合わせて葛藤や苛立ちを抱えながらも、言い訳はいろいろありながらも、「それでも」と思っていけるかである。

私は、学校は、生徒が将来力強く仕事をし社会生活を営む大人になるために、学び成長する場であると、こういう状況で正論をいわなければならないと思っている。先生方の事情もいろいろわかるのだが、「それでも」と、この正論をいわなければならないと思っている。

自分などが偉そうにいうまでもないことであるが、実際に生徒に授業や学び方の主導権を差し出した時に、直面しなければいけない問題点は山のようにある。

例えば、溝上先生も挙げている「話すことが苦手な子に苦痛を与える」「やる気のない生徒」「障がいのある生徒」以外にも、「人間関係に問題があるクラス」であるときはグループワーク一つとっても組ませ方に気を遣うしそもそもグループワークができないような可能性もあるし、「悪意がある場合」だって否定できない。

自分が授業で大きな声一つ出しもしないでいるのに、ぐったりと毎日疲れてしまうのは、生徒のことを見守ることが普通に授業やるよりもよほど神経にダメージを与えるからだ。

生徒が自由に学んで、自立していく姿を見るのは嬉しい。でも、それ以上に見なくてもいいもの、見たくないものを目の当たりにして、精神的に受けるダメージは小さくないのです。

生徒にとっては惰性と無意識のちょっとしたサボりなのかもしれないけど、そのことが他の人に集団にどれだけ大きなダメージを与えているか、そしてそれに気づかないでいる子どもの無責任さ、周りも見ないふりをしているのもやはり気持ち悪い、生徒たちにとってみれば「いつもの」惰性でしかないとしても、客観的に見てしまうと非常に見ていて苦しい。裏を返せばそのような未熟さはすべて自分が教えてきたことの不十分さの結果である。自分がこの子たちをダメにしているのだという叱責を受けているような気分になる。

名講義をおこなうくらいのことで、彼らが改心するのだったら、もうとっくに改心しているはずである。彼らにとって学校や授業が学びの場になっていないことを真摯に受け止め、彼らから出てくる言葉や考えから彼らにとっての学びの場を作り直していくしかない。

重い。今まで見ないでいればよかったものを直視しなければいけないことが苦しいのである。

一斉指導であれば見ないふりを押し通すこともできるのである。なぜなら生徒が何を考えているかを気にする必要がないからである。生徒に考えを表現させる、考えを形として残させるということは、生徒がどれだけ学びにコミットしているかということを明らかにするし、やる気の有無、自覚の有無まで徹底的にごまかしなく明らかにしてしまう。

生徒に対しては失礼な言い方になるけど、やっぱり人間の汚さや愚かさを直視させられるような気分にもなる。自分が勝手に期待して勝手に裏切られているだけとも言えるが、それでも生徒に委ねるからこそ直面する苦しさである。

ただ、「それでも」この苦しさは引き受けなければいけないと思うのだ。

「いつか」はいつまでもやってこない

教員が特定の子どもに教えられる時間は実は長くない。高校三年間なんていうけど、三年間連続で教えることができる生徒の数は思いの他多くないし、うっかりすると年度の途中で教員自体が変わってしまうことだってあるし、生徒の方が学校を去る場合だってある。

だから、「今は無理だ」とか「いつかやれればいいね」とか言っていたら、その「いつか」はいつまで経ってもやってこない。「いつか」が「いつか」のまま終わる可能性の方が高い。「城の崎にて」でこんな文がある。

何時かはそうなる。それが何時か?――今迄はそんな事を思って、その「何時か」を知らず知らず遠い先の事にしていた。

「いつか」なんていって、自分には関係ない「いつか」に任せてはいけない。

自分が覚悟をもって引き受けなければいけないのだ。

覚悟なんて言い出すと「覚悟…覚悟ならないこともない」という死亡フラグを立てる人がいるので、あまり根を詰めた言い方をするべきではないのだけど、じゃあ、気軽にアクティブラーニングやってみましょうというのは無責任であろう。

これだけ生徒に主導権を渡せば苦しくなることは多いのに、型のことしか言わないで、お手軽にアクティブラーニングができるようにいうのは、それもやっぱり不誠実であるとしか思えない。そもそも「こういう型でやればいい」なんて思考停止が「一斉アクティブラーニング」という一斉指導でしかない。本当にアクティブラーニングになるなら、「型」で収めることは無理だ。

教室を学びの場にしていくために、保証しなければいけないステップがあまりにも多い。

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