今月の『教育科学国語教育』の溝上慎一先生の連載が面白かった。
テーマは「アクティブラーニング型授業における教師と生徒の関係性と生徒の身体化」というもの。
内容としては以前に紹介したこの本と重複する。
アクティブラーニング型授業の基本形と生徒の身体性 (学びと成長の講話シリーズ)
- 作者: 溝上慎一
- 出版社/メーカー: 東信堂
- 発売日: 2018/03/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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授業の形ということについて考えさせられます。
教員の指示が通るということ
今回の連載で紹介されている実践は名城大学附属高等学校の反転授業である。
反転授業の詳細は上記の二冊を読んでもらうとかなり理解が深まるので、ここでは解説しない。
今回の連載で重要な観点は以下のことである。
教師はなぜアクティブラーニング型授業(反転授業)にするのかを説明をし、生徒がそれを聞いて納得し、そのような教師―生徒の関係性が成り立った上での結果が1~4の姿(引用者注:議論の場面、講義の場面の切り替えや生徒の傾聴姿勢や教員の指示がすぐに通る様子など)だと見るべきである。教師が、「頭と手を動かしてどんどんやっていきましょう」と、授業内で何度も生徒に声をかけていたことも、生徒たちの学ぶ意欲に影響を及ぼしていた。(P.114)
アクティブラーニング型授業の有りがちな失敗例としては、「アクティブラーニング失敗事例ハンドブック」に詳しい。例えば、「失敗結果マンダラ」を見てみよう。
(「アクティブラーニング失敗結果マンダラ」『アクティブラーニング失敗事例ハンドブック』P.4より)
「グループワーク無機能化」と左側にまとめれているように、グループワークが「雑談」になったり「浅薄な議論」になったり、そもそも「発言しない」というようなワーク自体が不成立になってしまったりという事例は少なからず起こっていることである。
今回の溝上慎一先生の連載でも
全国のアクティブラーニング型授業を見て回っているが、ワーク(活動)を採り入れても、児童生徒が真剣に取り組まない、表面的にワークをこなしているだけ、ときにはワークすらしない、といった状況を見ることが少なからずある。(P.115)
このような事例がアクティブラーニングが批判される原因となっている。
このような失敗がある一方で、冒頭で紹介した授業のように、「規律」とは言わないとしても、生徒同士がその場の学びを成立させる関係性も起こるのです。
さて、この差が一体、どこにあるのだろうかという話である。
もちろん、「這いずり回る経験主義」といった言葉があったように、この手の問題はかなり議論されてきていることである。それを乗り越えるための努力を教育にかかわる人々は考えてきたのも事実であるということは一言申し添えておく。
授業は、学びと成長*1を目指した空間における人(教師)と人(児童生徒)との真剣勝負の場である。ここを逃げて、知識だけを伝達するだけの授業が教育であるはずがない*2。(PP.115-116)
溝上先生のこの指摘は抽象的で分かりにくいが、一度や二度の失敗では棚上げできない、教育現場の課題への方策としてアクティブラーニング型授業(アクティブラーニングではない)が位置付けられており、実践を続けてトライ&エラーで改善を目指す必要性が強調されているのである。
身体化という観点
生徒や教員が一斉授業から抜け出せず、むしろそちらの方に居心地のよさを感じていることを、本連載では以下のように説明している。
スクール形式の前を向く学習には、ワークでだれる生徒児童でも、幼少期以来の学習の積み重ねによって慣れているだけなのである。
学術的にいえば、スクール形式の学習に即した「身体化」が確立しているということである。意識しないでも、学習とはこのようなものだと身体がまさに学習しているのである。逆にいえば、ワークでだれる児童生徒は、新しいアクティブラーニングに即した「身体化」が確立していないのである。(P.116)
このような観点から、本連載での提案は「児童生徒の身体の向きや動きを指示したり確認したりすること」(P.117)と極めてシンプルな提案である。児童生徒の身体化を促すことが、アクティブラーニング型授業を成立させ、その先にある深い学びを目指していくのである。
こういうことを普段、「生徒の自由にさせろー」だとか言っている当ブログが言い出すと「結局、自由じゃないじゃないか」と言われそうなのですが、そうではないのです。
「学び」というものは自由であるし、生徒に任せて委ねられていくべきものだと思っていますが、それはただ昨日までスクール形式でやらせていたものをいきなり手放して放り出すこととは違うのです。
「身体化」という言い方は自分はしませんが、生徒が自由に考えられるようになるまでには、「自由であっても大丈夫」という場所が成立するまでは、放り出せないし交通整理していく必要があると思っています。ただ、それがいつまでもダラダラと手放せないでいるのではなく、できるだけ穏当に、そして早々と手放したいといっているだけです。
今日、こんなブログの記事をみましたが、この感覚はとてもよく分かるのです。
私語があったり、寝てたり、内職したり、スマホいじったりもされるけど、それでも時間割通りに彼らが前を向いてそこで私を待っている、ということが私と彼らのコミュニケーションを実は強力に支えているのだ、という当たり前の話。
学校の気持ち悪いところなしでは教員でいられない - 高専てつがく+α(仮)
詭弁かもしれないが、自分はこの「当たり前」を変えていけないかと思うのである。
「学びの責任」は誰にあるのか: 「責任の移行モデル」で授業が変わる
- 作者: ダグラスフィッシャー,ナンシーフレイ,Douglas B. Fisher,Nancy E. Frey,吉田新一郎
- 出版社/メーカー: 新評論
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勝手に学べなんてそんな雑な話はないのである。少しずつ、少しずつ、委ねていきたいのである。そして、自分がいなくても勝手に授業が成立するならば、それが理想である。
主体性をめぐっての説明として、折しも、今月の『日本語学』で「主体的・対話的で深い学び」の解説の記事を藤森裕治先生が次のようなコメントを書いている。
教師に統制された活動であれ、それをどのように展開するのか決定権が子供たちに任されている場合、かれらは、与えられた課題を解決するための方略を自ら見出す必要に迫られる。(中略)このとき重要なことは、現在の進め方に不具合が見出された場合、それを調整してより妥当な進め方に修正する権限もまた、学びの当事者に委ねられていることである。(P.5 下線強調は引用者)
予定調和ではないという考え方が好きなのかもなぁ。
何のために授業をしているのか
今回の連載に限らず、溝上先生はかなり危機感があるらしく、辛辣な物言いをしていることが多い。今回の連載でも
グループワークに取り組めればいいというものではないが、それに取り組めないで、ひとり個人のなかで理解しても、深い学びに至っても、その個人は社会では使い物にならない。(中略)あえて乱暴に表現しているが、これくらいいっても分からない教師がいる。何のための学校教育かを改めて問わねば、これからの新しい教育は理解できない。(P.117)
とバッサリと言っている。
自分はこの言い方は非常に共感できる。
たぶん、それは、自分が生きてきた学校で、何一つ得ることがなかった、理解されなかったというルサンチマンから来ているのかもしれない。
さて、自分は生徒に何を残しているのでしょう。泣いても笑ってもあと半年です。
*1:この「学びと成長」という言い回しは、溝上慎一先生のアクティブラーニング論に基づいたもの(学びの成長のパラダイム)だと思われる。詳しくは『 アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』参照
*2:溝上先生がこのような主張になるのは「10年トランジション調査」の結果が背景にある。雑に描写するならば、大学で慌てて学ぶ意義やコミュニケーションスキルなどをやろうとしても、間に合わないというデータに基づく実感からの主張である。詳しくは『高大接続の本質―「学校と社会をつなぐ調査」から見えてきた課題 (どんな高校生が大学、社会で成長するのか2)』などを参照。