あまり小難しいことをやろうという気力がないのとリーディングワークショップにむけて生徒にあうような本を探しながらの読書をしている。
大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル (岩波ジュニア新書)
- 作者: 豊島ミホ
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2015/05/21
- メディア: 新書
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この本もそんな下心のために読んだ本なのだけど、教員として読むにはなかなか耳が痛い話が多かった。
攻撃を超えて、手に入る平穏
この本は著者の生きづらくて仕方なかったという青春時代を赤裸々に綴ったものだ。内容は決して公平でもなければ思い込みや被害妄想に近いようなことも書かれている(それについて書き手が自覚的だから別に嫌味ではない)。
非常にタイトルが過激なだけあって、色物扱いされそうな本なのだけど、最終的な結論はいたって常識的。
実は「他者に対する憎しみ」のゴールは、この「どうでもいい、関係ない」というスタンスです。相手から悪い影響を受けることを、自分は選ばない。悪いものを投げつけられたら、受け取らずに捨てる。いつも自分を大切にする。(P.5 強調はママ)
キューブラー・ロスの「死の受容の5段階説」では「否認と孤立」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」という段階を経るというが、この本で描かれる著者の半生はまさにこの過程を辿っている。
【参考】
だからこそ、著者の主張する「どうでもいい、関係ない」というスタンスには重みがあるし、つらい人ほど読んで気持ちが楽になるのではないかと思う。
『ツァラトゥストラはかく語り』の「通過」でニーチェは「もはや愛し得ざるに至らば、即ちその處を通過すべきなり」と述べているが、まさにそのような境地というものだろうか。
教室の中の無理解
この本の著者は「スクールカースト」が自分は下であったために苦しくなったということを述べているが、教室を管理する側からすれば耳に痛い話ばかりだ。
結局、ちょっとしたことに傷つき、取り返すまでに大きく時間がかかってしまうということだ。そのような攻撃的な側面を抱えながら、日々、リスクに無意識に授業をやっていることが少し怖くなる。
以前に苫野先生がこんなことを言っていたのを思い出す。
教育学部では、不登校の子どもをどうすれば学校に「戻せる」か、という発想の議論をしたくないなと思う。「学校に適応させる」という発想にいたっては、論外じゃないか。
— 苫野一徳 (@ittokutomano) 2016年11月28日
学校に適応しない子どもがおかしいとか、悪いとか考える前に、システムに問題があるんじゃないかと考えたい。教育学部では特に。
— 苫野一徳 (@ittokutomano) 2016年11月28日
こういう側面に無意識になっている自分がいることに、慣れというものが怖いものだと感じる。
ちなみに、苫野先生は「なぜ学校にいかなければいけないの」ということについては、中高生向けに次の本で分かりやすく論じているので、そちらを見ても面白い。
この本の中でも「もっと人間関係が緩やかになるほうがいい」というようなことが述べられていますが、今回の豊島ミホさんの経験はまさに吹き溜まりのように澱んだ教室の空気が引き起こしたものだと感じますし、そのような澱んだ空気を思い切り吸い込むような気分の悪さを感じます。
教員が見えないふりしていることは多いんじゃないだろうか……。