昨日の続きです。苫野先生のセクションとお二人の対談のセクションの内容の紹介です。
ぜひ、『問い続ける教師―教育の哲学×教師の哲学』を読んでいただくと、内容がよく分かるかと思います。
実践なき哲学は空虚であり、哲学なき実践は迷走的である
今回の苫野先生のお話は、意識的に現場や実践の具体から離れて、抽象的で原理的なことを語っていました。講演のタイトルも「実践なき哲学は空虚であり、哲学なき実践は迷走的である」とカントを文字ったものですね。
そもそもの問題の本質を捉えることで、だれもが納得できる原理を示すものが哲学
哲学徒と学校の教師では思考がまったく逆という。
原理原則からものを考えるか、具体的な現場から考える思考か。どちらも協力しあって考えるべきことでないかという問題提起です。
現場と理論を二項対立で考えることが苫野先生の「問い方のマジック」ですから、お互いに協力するということを目指さなければいけない。もちろん、具体に近い現場は、原理原則を簡単に飲めない事情に振り回されがちではあるのだけど、それはそれで仕方ないかなとも思う。そういう傾向にあるということを自覚しているだけでも、協力する余地が生まれてくるのだと思います。
「現場をしらないくせに」ということは禁句にしたほうがいい
苫野先生の講演の中で、今回比較的強い言い方をしたという印象があるのが上のコメントです。それぞれの立場で見えていることがあるので持ち寄った方がいいのではないかという至極、真っ当なご主張なのですが、なかなか根深く改善されない問題ですね。
どこの教育関係の学会でも「現場と研究の融合」は念仏のように唱えますが、なかなか実現しているとは言い難いところですね。
なかなか強烈だったのが次の指摘です。
教育の現場は「学校」だけではない
思うに学校の教員は「教育現場」ということを自分一番よく知っているとどこかで思っている。でも、実は「教育」は学校だけの専売特許ではないし、独占すべきものでもない。
当たり前のことなんだけど、自分も全く忘れていたので、非常にこの指摘は耳に痛かった。次の学習指導要領にも「社会に開かれた教育課程」という文言はあるが、その言葉に対するリアリティを失っているんだなぁ……。
建設的な思考のための哲学
後半戦については苫野先生が繰り返しご主張されていることのエッセンスをお話をしていました。内容は……ここで自分が変にまとめると誤解を生みかねないので、参考書籍の紹介で留めておきます。
「一般化のワナ」や「問い方のマジック」「本質看取」について丁寧に述べられている一冊です。……これ、書評書いてなかったな。しまった。
具体的な今後の教育がどうなるべきかということについてのビジョンが描かれています。ビジョン以前の原理から議論が始まっているのも重要なポイントです。より本格的な議論を読むならば
がおススメですし、また、なぜ<自由>なのかということを考えるのであれば
「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)
- 作者: 苫野一徳
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2014/06/19
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まで読むことがやはり重要なのだと思います。…この本は昨日のレジュメでは紹介されていませんでしたが、個人的にはこういう迂遠にも見える「そもそも論」を教員がちゃんと挑みかかることに意味があると思っています。たぶん、苫野先生の教育関係の本は読んでいても、こちらの本を読んでいる人は一気にいなくなる気がします。理解できなくても挑みかかる、このスタンスが案外大切なのではないかと思うのです。あ、面白いスタイルとしては
自由の相互承認 ?? 人間社会を「希望」に紡ぐ ??: (上)現状変革の哲学原理 (iCardbook)
- 作者: 苫野 一徳
- 出版社/メーカー: 詩想舎
- 発売日: 2017/03/25
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があります。これはエッセンスごとにページが分かれていて、しかもリンクされているので知識が枝葉のように広がっていきます。
多賀実践を読み解くというセクションもレジュメにはありましたが…
にかなり書いてあると(笑)。自分もそう感じます。
質疑応答
どのような評価がよい評価なのか
→どのような目標によるが、この先は探究の時代。自分が問いを立てる時代。問いを立てる過程でたくさん失敗すればいい。たっぷりと探究の時間をとれるのであれば、失敗すればいいのである。みんなでお互いに評価し合えばよい。評価を序列をつけるという発想から抜け出していく。
学校の中でお互いに自由は成り立つのか
→今後、個別化・協同化・プロジェクト化の融合で成り立つのではないか。教室が何が何でも自由でなければならないということを言っているのではなく、教室の中で相互承認の感度が育まれていくことが必要である。
最初の一冊としてどの本をおすすめしますか
→教育の力かなぁ。
過去の対談の振り返りと会場のフリートーク
この先は非常にざっくばらんとした時間でした。
過去の二人会の内容の振り返りをざっくばらんに話し、それを聞いた会場の参加者たちがお互いに質問や疑問を持ちより、それについてお二人が答えるというような形式でした。
学校に多様性を!ということが通底するテーマであったことを思えば、その多様性を実践する場だったと思います。個人的にはあまり得意ではありませんが…。
なんとなく、お互いにオッケーという「承認」をすることは心地よくもあり、また難しいものです。
逐一、その内容を紹介するのも難しいので、印象に残っていることを何となく箇条書きで。
過去の対談の振り返りより
わかったようなわからないような「自由の相互承認」
個人的な意見ですが、『教育の力』などの中で論じられている「自由」と<自由>の差の理解が必要な気がします。
ある言葉を分かったつもりで話してしまうと、意外と他人と考え方がズレていたりということは珍しくありませんしね。
学校自体が自由を奪う場所か
苫野…学校は、相互承認の感度を育み、それぞれが自由になる力を育めている限り、正当性はある。
逆に言えば、「自由」になるということを考えなくなった学校は……最近、SNSではブラック校則が話題ですけど、さて、どう思うか。
相互承認に必要な力とは
①自己承認
②他者からの承認が得られること
③自分が他者を承認する
→自由の相互承認にはフェーズがある
多賀…わかるし、向かうべきだが現場がそれどころではない。
苫野…だからこそフェーズ。
★そのフェーズをもう少し掘り下げよう
苫野…最高位…賞賛レベルでの承認。最低…認めた上で通り過ぎる。
ある意味、承認に至るまでの中2病的なステップを教師が知っておくことが重要なのではないか。それを持つと余裕が持てるのではないか。
学校・学級は必要か
苫野…効率を目指して作られた学校の在り方には、限界。熱心な日本の教師たちによって学級がまとまったが、それが子どもたちを苦しめることに。
多賀…制度疲労を起こしていることは間違いない。今の現場でやっていくしかない教師たちは、どう考えていくべきか。
→苫野…自分の仕事は15年20年後のビジョンを示すこと。ビジョンを示さなければ、ルートマップを描くことができない。
苫野…ビジョンとしてのよい教育の原理もわかって、実践も出そろっている。制度的な実装の段階に入っている。研究者としての仕事として、エロスをかき立てるようなビジョンを描かなければいけない。今の教育の議論の描き方が不安ベースである。楽しくないといけない。
この対談のまとめは「結局、子どもたちを信頼して任していくしかない」ということでした。
「今の教育の議論の描き方が不安ベースである」という指摘は結構重要なのではないかな。大人にとっても子どもにとっても、学校という場が息苦しくなってしまう原因がそこにあるのではないかと思う。
最近、学校でワクワクしているのだろうか。いや、どちらかと言えば絶望感ばかりである。さて、その絶望感の責任はだれにあるのだろう。自分が過度に期待してしまっているのか、文句が多くなってしまっているのか。どうすれば自分のビジョンを描けるのかは大きな課題である。
フロアからの質疑応答
大人同士の相互承認について
相互承認…といっても、学校の大人同士だと色々難しいことありますよね…。
苫野…知らないとお互いに承認し合うことができない。お互いがどのような教育実践をしていきたいのかということを深めるような時間をつくることが必要。お互いを知ることが相互承認を深める場になるのではないか。
多賀…子どもは今どのような段階にあってもいいのだけど、大人はもう無理だろと思う部分はある。無理な人とコミュニケーションはできないんじゃないかと思うのが学校。大人でも子どもでも同じか。
苫野…学校は通り過ぎられない。しかし、共通了解できないとチームにならないと困る。青臭いことを話し合うような時間をたっぷり持つことが必要なのではないか。
多賀…私立は呉越同舟。公立は逃げられる。私立はダメになったときはぼろぼろの人間関係になってしまう。
苫野…チームビルディングやマネジメントを学ぶことなく学校教員になってしまっている。教員養成課程がやっていかなければいけない。
多賀…管理職がもう少しマネジメントしていかなければいけないのではないのか。今、管理職にいる人は別に10年後に現場にはいない。だからビジョンを描くことが難しい。どうやってワクワク感を作るのか。
苫野…『問い続ける教師』のような本を読んで、青臭く語り合うだけでも意味があるのではないか。
教員自身がもっと自己承認できるようになるためにはどうすればよいか
多賀…大人が承認されていない。自己評価が低い教員は多い。それは教員としてはまずいのではないか。教室に唯一いる大人なのに、わくわくが足りない。
苫野…てっとり早く承認を得るには子どもから得るのが楽。それが大きな問題になってしまっているのではないか。承認を得ることが自己目的化していないか。子どもは自己承認の道具ではない。
信頼するとはどういうことか
この質問に対する多賀先生の答えがこの研修会の一番の名言です。
多賀…覚悟に決まっている。やるしかない、腹を決めてやる。目の前の子どもの姿をみているだけでは信頼なんてできない。将来を信じる。
苫野…なぜ信頼して任せるのが重要か。覚悟を持つ根拠が必要。
モンテッソーリの言葉にあるが、言われたことしかできない子どもにしてしまうことを問わなければいけない。子ども自由を実質化するためには、任せなければいけない。手綱のゆるめ方。失敗させてよい。そして支えることが重要である。
当日はあと一つ、苫野先生への質問がありましたが……それは個人的にとても面白かったので、秘密です(笑)。現場にいた人にしか伝わらない苫野先生の熱量があるので、安易に書きたくありません。
長くなりましたが…
長くなりましたが、以上が3月10日のレポートです。
もし、参加された方で補足などがあれば、ぜひご指摘ください。
思うに、だいぶ、教育業界の潮目が変わってきたのだろうなぁと感じます。今回の定員は確か100名くらいだと思いますが、あっという間に満席になるような人気ぶり。100人も全国にこういう教育観を共有できる人がいるというのは心強いことです。
比較的若い方が多かったのも印象的ですね。たぶん、30代くらいの方が多いのでは?
ただ、厳しいことを言えば、まだまだ原理を掘り下げるということについては、たぶん教員側の勉強は足りていない。上から目線に聞こえたら申し訳ないのですが、当日に少し周囲と話してみても、『どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)』や『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)』などを読んでいないという人は多い。別に読んでいるから偉いというわけではないけど、なんだろ、わかりやすいところだけで分かったつもりに陥りやすいからこそ、もう少し読まれていてもいいんじゃないかと思うわけで……。
プロの研究者と同列になることは不可能ではあるけど、お手軽な話や新書ばかりで分かった気になってしまって、いいところだけつまみ食いするようなやり方に走ってしまってはいけない。
いや、本当、誤解されたくないのだけど、この問題意識伝わるだろうか……。
言えることとしては、やっぱり勉強しなければいけない。でも、それと同じくらい、学校を巻き込んでいく責任が、一人一人の教員にあるんだなということです。
もっとちゃんと勉強します。とても勉強不足なことと他人を巻き込む力が弱いことを自覚された一日でした。