愚痴や怒りばかりの記事を書いていると体調が悪くなるのでたまには気分の良くなるような話を。しかし、そういう話はあまり読まれないのだが(笑)
三つほど個人的にうれしかったことを書いてみようかと思います。
東洋大学現代学生百人一首に入選
実はこれは前に通知があったことなのですが、二学期に取り組んでいた短歌の授業の成果としてコンクールに応募していたのですが、そのコンクールで入選作品が出ました。
しかも、百首のうち十数作品しか選ばれない「秀逸作品」にも選ばれました*1
まったくの素人の生徒が、楽しみにながらあれこれと考えて作った作品が、こうやって高く評価されたことは素直にうれしいです。
しかも、やはり授業した側としても受けた側としても「授業の時間で一生懸命活動した」という感覚のある作品が選ばれたのが嬉しい。何となく宿題に出されてやっつけで作ったというようなものとはやっぱり思い入れが違う。
偶然の要素は大きいだろうけど、それでも結果的に評価されたのは素直に喜びたい。
教え子が大学に受かる
まあ、何人も教えているので珍しいことではないのだけど(逆にいれば、同じ数だけ落としてはいけない生徒を不合格にさせてしまっているのだが…)、それでも思い入れのある生徒の合格は嬉しいものである。
それが特に教育を志し、教育学部を受験したとなると、もう喜びは一入である。推薦入試だったので、徹底的に教育の近年の状況や学力観を教えた*2こともあったので、ぜひとも合格してほしかった。
教育学部に入るということは地球史的規模からみればもう同僚ですよね。自分の仲間が増えるのは嬉しいことです。
生徒の思考が少しずつ鍛えられている
今年度はゆるやかに指導をしていこうと思っていたので、授業も必然的に他の人のやっていることを見ないふりして悠々と考える時間を持つような授業設計で進めてきた。
そういう授業をやったところで別に模試の成績は上がることないので、周りから「本当に学力ついているのか?」となじられるような視線で見られることは少なくないわけですが、そんな中折れそうな*3心を慰めてくれるのが上のような生徒の学習の様子である。
あえて見づらくしているのですが上の写真は生徒が「グローバル化」についての討論課題のために自分で用意してきた原稿です。
この授業の展開としては、教科書の文章→補助資料→自分で資料を探すという段階を踏ませ、最終的にすべての資料を統合して自分で語れるようにと考えていた授業で、自分は最初期の「グローバル化」の簡単な概念説明以外は手を出していない*4。
結果的に、一年間に仕込んできた「資料を整理するための方法」や「複数の資料を引用する」などを自分たちなりに使って一生懸命書こうとしているのが嬉しい。
自分たちの言葉で考えたり議論出来たりということはかなり意識している。とにかくつまらない人間になってほしくないと思っている。
そんなことを思っていたら、こんな記事がタイムリーに見つかった。
この講演の原稿の中でこんなコメントがある。
…東大に入った筑駒の卒業生にインタビューをしたという話です。…(中略)…(東大には)いろんな学校から進学して来ますね。そういう人たちとグループワークとか議論をすると、「面白くない」と言うそうです。ここだと思うんですよ。つまり、6年間、目的とか、学校の文化に染まった生徒たちが、本当にお互いをよく知っていて、議論をする。そこで面白いと感じる。そういったことが一生続くんだったら、それでいいのですが、3000 人いろんな学校から集まってきて、そしてお互い知らない状況から、一緒に議論をしましょう、一緒に課題に取り組みましょうということになるわけです。そのときに、一緒にやろうといってもあんまり何も出してくれない学生がいますよね。そういう学生がいて、大学では非常に問題になっています。
さすがに筑駒の秀才たちと自分の生徒が簡単に議論ができるとはなかなか思えないけど、少なくとも自分よりも周囲のレベルが高い集団に入ったとしても、集団に貢献するために積極的に動けたり、自分のできる範囲で貢献したりするような態度を育てたいとは思う。
そのために一歩として、少なくとも授業の中で手を変え、品を変え、様々な課題を協働して取り組むことやしっかりと言葉にしていくことを求め続けてきた。
その成果を感じる一コマとして上のように取り組めているのを見るのは嬉しい。もちろん、一人だけではないからこそ。
なお、上の講演で溝上先生は筑駒には「やる気や力のない人まで巻き込んで欲しい」といっているが……逆にそういうことならうちの子たちは得意かもな(笑)
冗談はともかくとしても、この後に続く
つまり簡単な話、高校生のときにグループワークをしなかった、あるい
はそういうものを嫌がった生徒が、大学に入ってやるのかと。やらないですよね。高校のときにできなかった、しなかった生徒が、担任も、注意してくれる先生もいない大学の中でやるわけがない。そして大学でやらなかった生徒が、将来仕事をするようになって、仕事だからといってやれるようになるんだったら、苦労しないわけですね。
という言葉は重い。
この言葉に対して自分は少しは責任を果たせていると言える一年だったと思いたいのです。
成果のために仕事をしているわけではないけど
成果のために仕事をしているわけではないけど、嬉しいものは嬉しい。
日々の生活に嬉しさを見つけられるのがそれもまた嬉しい。