ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

目的がかみ合えば

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テスト前となって、授業の言語活動も佳境である。

基本は生徒の期待感

ずっと色々なクラスで五月雨式のタイミングでバラバラに「山月記」に取り組んでいたが、やっとここで一通り終わる。

結局、6種類の「山月記」の授業を展開した……って、我ながら何やってんだという感じだが、これがもしかすると最後の「山月記」の授業かもしれないと思うと、色々なパターンを試しておきたかった。

書評を書く、レポートを書く、読書会、ジグソー法、討論……などなど、様々な形態で取り組んでみた。

持っているコースや単位数がバラバラで成績に相互に関係ないクラスだから、そういう無茶を押し通すことが出来たとも言える。

生徒の状況にあわせて、一番、このクラスの生徒が「背伸びをする」ような課題は何かと考えてやってみると、やっぱりピタリとハマれば、それが一番、力になるのだろうなと感じるのである。

もちろん、上手くいくことばかりではないので、今回も何回か失敗している。見立てを誤ったり、課題を間違えたり…ということである。

もう、素直にごめんなさいするしかないのである。

ただ、四苦八苦しながら何に取り組むかということを微調整していくと、最終的にはそれなりに生徒にちゃんとフィットする形は見えてくるのである。

上手くいくかどうかは、生徒がその「課題」に対して取り組んでみることに「期待感」が持てるかどうかである。その「課題」が面倒に見えたとしても、やりだすと面白かったり、「こういうことをできたらいいな」と思ったりするきっかけがあれば、粘れるものである。

「これじゃあ厳しいよなぁ…」と勝手にこちらが期待値を下げてはいけないのである。もちろん、無理をさせてもいけないので、本当に生徒の様子を授業中に見ていないと難しい。

魅力的な手本があるか

じゃあ、どうすれば「期待感」を持てるか。

それは、やはり魅力的なお手本に勝る方法はない。自分もこうしたい、こういうものを成果に残せたら楽しそうだ、そういう気持ちを持ってもらえるかが重要なのだ。

現実の社会の中にそういう見本になる作品を探し求めて、日々、言葉に注目して生活をしているつもりであるが、なかなかそういうネタばかりを扱えるわけではない。だから、多くの場合は、自分自身が見本を作るのである。

まあ…自分で見本を作らないで生徒にやらせるとろくな事にならないので、これは高校の先生ほどちゃんとやったほうがいい。

ただ、自分の持っているセンスには限りがあるので、基本的にはなかなか生徒に上手く刺されないことが多い。……これは個人的な修行である。

一方で、過去の生徒の残していった「作品」は面白いように、生徒に刺さるのである。

自分たちもこうしたい、これに負けたくない新しいことを考えたい、こういうことをすればよいのか……そういうことがちゃんと刺さるのである。

そういう様子を見ていると不思議だなぁと思うし、「教える」ということが、目の前の生徒だけではなく、連綿と何かが重なっていく営みなのだなぁと思うのである。

大村はまの実践集には別冊付録として、生徒の作品資料が大量にある。

大学にいた頃には、その作品の価値はよくわからなかったが、こうして、自分が授業をして、資料をため込んでいき、生徒に還元していくうちに、なるほど、こういうものなのか…と今になって時間してきている。

ああ…若い頃にもっとちゃんと見ておけば良かったと、今になって思うのである。

いつか、鳴門教育大学にいこう。

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