ざっと思ったことを書いておこう。
まあ、平たく言えば愚痴である。
芯がない
今やっている教育が正しいかどうかといことは、教室で授業やって毎日生徒と顔を合わせているときには、建前はともかくとして、やっぱりいつだって自信なく「分からない」と思っている。
今、いくら理論武装しても、十年たったらパラダイム自体が変わってしまって、あとから振り返れば、全く意味のない時間を過ごさせていたみたいなことだって十分に起こりえる。
だからこそ、非常に、他人の子どもを教えるということは「子どもが好き」だとか、まして「教えるのが好き」なんて傲慢な物言いで自己満足をしているだけではダメだし、いつだって自分自身が勉強して、今、自分がやっていることを検証しなければならない。その一方で、今、目の前の子どもに対して「今やっていることは無駄になるかもしれない」なんて言い方をして自信なさげに授業するわけにもいかない。少なくとも、芯を一本通したビジョンを示して授業をしなければいけないと思うのです。
でもね、日々の生活に追われて、そして何年も同じことを繰り返していると、ビジョンなんて持たなくても、その場をやり過ごすことはいくらでもできてしまうのだよ。
その穴埋めのプリントが一体、子どもたちの将来に役に立つのですか?穴埋めさせる50分に何の意味があるのですか?自分の自慢話や漫談を教養だと強弁して垂れ流すことに何の意味があるのですか?
非常にいい人ぶっているのも不愉快なのですよ。
子どもに勝手に線を引く
子どもたちの能力はいつだって未熟だ。可能性を信じてやれるから、授業でベストを尽くすことに本気になれるはずだ。
でも、どうして、なかなか、簡単に生徒が何ができると見限ることができるのだ?
ああしたい、こうしたいという子どもたちの意志を、そう簡単に否定することがなぜできるのだ。「お前はここまでだ」ということに何の根拠と自信があるのか。
無理なものを無理だと言わなければいけないときも確かにある。しかしだね、何もやらせないで、自分のいうことだけ聞かせるために、どうして罵詈雑言を言えるのだ?
生徒の出来が悪いのではない、教える方が教えるだけの能力が足りていないのだよ。
自分の思い通りにしかできないことを正当化するな。