そろそろ考査。
一旦、授業も小休止。生徒のも受験勉強と並行しながら考査の勉強。やっと仕事が多少落ち着いて、なんとか教室を見て回る余裕も出てきました。
そんな中たまたま生徒と色々と話すことがあり、自分たちの授業について思い返していたのです。
一番の批判者である
自分たちが受けている授業について、もう高校三年生のこの時期なので思い出話のように話すのである。
そうして自分たちが何を教えられ、何を学んできたのかということを軽やかに話すのである。
そうして、もう言いたい放題好きなことをいうのだから、よほど耳に痛い。
勤務校も色々と世の中の流れを受けて、アクティブラーニング的なことを試したりしているわけだけど、やはり上手く行かないことは山ほどある。そういうアクティブラーニングの失敗事例にはよほど生徒の方が厳しい。
自分の授業に対してもあれこれ言ってくれるので、こちらとしては次回以降の材料となるので非常に助かるのである。ダメなもんはダメである。
批判もよく的を射ている。
知識ないのに議論させても教員の手抜きだろうとか教え合いさせるのは出来る子にできない子を縋らせるようなものではないのかとか、プリントの穴埋めをグループワークさせるのに意味はないだろうとか……まあ、どこかで聞いたような話が再生産されるんだなぁと思ったり。さすがに自分はその手の失敗事例はリサーチしているのでやらかさないけど、生徒と話していると反省点がよりはっきりと分かってくる。
自分が何をしてきているか、よく考えているなぁと思うのである。
自分たちの置かれている場所をよく分かっている
生徒も無自覚に、純真無垢に生きているわけではない。自分たちがいる学校がどのような学校か、自分たちの今受けている教育が世間からどのように見られているのか、どのようなことが世間から期待されているのか、自分たちの世代がどのように見られているのか……etc。
だから、色々なことを言ってくれる。教育について「ああいうのがいい」「こういうのがいい」という話をざっくばらんに。
「なぜゆとり教育なんてやったのか」みたいな話もあれば「高大接続で入試を変えても授業って変わらないんじゃないの?」とか「アクティブラーニングしたことない人がアクティブラーニングできるの」とか……まあ、よく考えているのである。
偉いなぁと思ったのが、「自分たちが比較的競争の強者にいて恵まれている」という自覚を強く持っていることである。それゆえに「どうやっても弱者の立場になれないんじゃないか」という引け目を感じている部分もあり、自分の進路でやりたいことと現実のギャップを自分なりに考えている。
自分の問題意識として、何をできなくても自覚できるなら、それでいいのではないか。答えは与えてあげられない。
子どもたちはお客様ではない
ついつい、授業を考えていると「与える」という感覚になりやすい。子どもたちを「いつか大人になる存在」として、特別扱いして満足してしまいがちである。もちろん、完全に大人と同列に扱うことは難しいし、訓練しなければいけないことも多いけど、それでも、もともと同じ社会に参加している一員なのである。
自分たちがどのような立場にいるのかということの意識もちゃんと持っているし、自分たちの過ごしている世界に関わりたいという気持ちだって持っている。もちろん、自分たちが子どもであることに甘えて問題を棚上げしていることもあるし、それはそれでよいのである。
ただ、子どもたちが無力で、無垢で、無関係な存在ではないという、当たり前だけど忘れがちなことをきちんと考えていないといけないなぁと反省するのである。
- 作者: ガートビースタ,Gert J.J. Biesta,上野正道,藤井佳世,中村(新井)清二
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