三学期の一週目が終了。基本的に1回目は今後の授業のオリエンです。
今後の授業の展開に期待と楽しみを持ってほしくて、ひたすら話す。苦しいこと、大変なことも多いけど、知的な楽しみがあるんだということを伝えたい。
授業でやりたいことは
何のために生徒に対して延々と一時間かけて授業について話しているのかといえば、自分たちがどんなことを学ぶのかということについて期待を持ってほしいし、自分たちがとても高度なことをできるのだ(やらなければいけないのだ)ということに自信を持ってほしいからだ。
そんな思いでちょうど授業の一週目を終えたときに、こんな記事を読んだ。
ナンシー・アトウェル著の『In the Middle』の中の「リーディング・ワークショップで学ぶ理由」についての内容が紹介されている。
In the Middle: A Lifetime of Learning About Writing, Reading, and Adolescents
- 作者: Nancie Atwell
- 出版社/メーカー: Heinemann (Txt)
- 発売日: 2014/11/05
- メディア: ペーパーバック
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詳しいリストの内容はリンク先を見てもらいたいが、このリストを見て思うことは、もちろん、その内容の高度さに感心するということもあるけど、それ以上に「こういうことをきちんと自覚的に説明できるようになってほしい」という思いが、自分の中にあることを感じるのです。
一体、何のためにこの時間を過ごしているのか。決して少なくない現代文の授業で、いったい自分たちは何を学んでいるのか。ちゃんと言葉や文章についてこれ以上なく学ぶ時間であると納得できる。そんなことを考える生徒に育ってほしいと思うのである。
はたして、このリストのどれだけが国語の授業で得られていますか?
獲得する必要はないのでしょうか?
国語はまったく異なる目的のためにしているとしか、言いようがありません。
いったい、国語をやり続けている目的とは何なのでしょうか?
先の「WW/RWだより」の中のこの指摘は非常に厳しいものがあるが、自分自身が国語の授業に感じてきたことそのものだからこそ、誤魔化したくないことなのである。
自分の中の価値観として
授業の方法について、例えば、アクティブ・ラーニングなどについて語るときには、現実的には「一斉授業を否定しているわけではありませんよ」とか「教員の授業も大切ですよ」とか「今までやってきたことが否定されるわけではないですよ」とか、バランスをとった言い方をしますし、実際、そういう側面があることも分かっている。
しかし、理屈を超えた価値観の部分では、「一斉授業」ではどんな言い方をしても、何も成し遂げられないのだろうなという気持ちがある。
教師主導で全員に決まったことを教える指導案をベースにした一斉指導では、教師は教えた気になれ、生徒たちは教師へのお付き合いをしているだけ
うん、本当にそう思う。自分がそういう生徒だったから。いや、自分は教員になんて付き合わなかったからやりこめた(笑)。
アリバイ作りの授業に意味はない。子どもを良い子にすることに意味はなくて、子どもを大人にしなければいけない。
しかし、「大人の都合」という話は色々なところで当たり前に幅を利かしている。そして、そのことに対して教員が意外と無自覚なのだ。
例えば、前に書いたICTの話だって、教員にとって使いやすい、都合よく使おうとするから雁字搦めの制限をつける。
教員の漫談や即興劇のためのエキストラじゃないんだよ。