昨日の疲れがあまり抜けません。気疲れなのか暑さにやられたのか人に酔ったのか…。
そんな状況のせいか余計なことをTwitterで口走りました。
「すべての生徒を伸ばす」ということと「自分に一番合うものが何かは自分が一番分かっている」ということを認めていこうねって話だと思うんですよね、今度の改訂。だから、アクティブ・ラーニングばかり煽られるけど、学び方やカリキュラム・マネジメントの話もアクティブ・ラーニングと同等以上に大切
— ロカルノ (@s_locarno) 2017年8月6日
すべての生徒を伸ばすためには教室の実態をつぶさに分かっているべきだし、1教科だけでやろうというのがそもそも間違えだろう。子どもも伸ばすって週に細切れ三時間くらいではできないよ。だからこそカリキュラム・マネジメントでちゃんと毎日毎時間が貫かれなければいけないんだろうしね。
— ロカルノ (@s_locarno) 2017年8月6日
「自分に一番合う物は自分が一番分かっている」ってことを認めると何をいつどのように学ぶかということを思い切って生徒に委ねるしないでしょう?お互いの良心と理性を尊重するってことだよ、それが子ども相手でも。そこに教育の役割を考えるなら「自分のことが分かる」の難しさを支援することでは?
— ロカルノ (@s_locarno) 2017年8月6日
「自分のことは自分が一番分かっている」から自分で決める権利を認めるのは大切なことですし、揺るがせにしたくない。でも、「自分のことを分かる」ってのがとても難しい。他人からみれば明らかなのに自分では気づかないなんてよくある。ジョハリの窓よろしく。だからこそ、対話的な学びですよね。
— ロカルノ (@s_locarno) 2017年8月6日
教室に足りないのは時間や金だけではなく、生徒にとってのよきメンターやメンターを見つけ方や見つける意義を伝えることなのかもしれないね。
— ロカルノ (@s_locarno) 2017年8月6日
その結果、思ったことが「単元学習」から離れしまっているなぁということです。
ま、単元学習が何か分かるほどに単元学習をさっぱり勉強していませんけど。
なぜ、こんなことを思うようになったのでしょう?
自分自身が自由でありたい
とても「自由でありたい」と言い出すと、生意気に聞こえてしまうのだけど自分自身の信条として「自由である」ということを捨てられない。
それは生徒時代に上手に教員の機嫌を窺って生活してきたという経験が、いまだに違和感とともにつまらないものであったという思いがあるからだ。教員をギリギリまで挑発したり逆に気持ちよくおだてて見せたりしていたけど、そんな嫌な生徒であることにうんざりした気持ちがあった。
だからこそ、自分が教員になってしまっている今、自由であることを生徒に保障したいのです。
「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)
- 作者: 苫野一徳
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だからこそ、これらの苫野一徳先生の本は自分にとっては非常に大きな影響があった。
自分の原点はやっぱり「自由」にあるし、生徒には自由であってもらいたい。
最近の授業に対する気分は「何も教えたくない」「教えられない」って感じなんです。だから、昨日の学会発表も完全に大会の趣旨と噛み合ってないことをしてしまったんだよ。中途半端に学会の趣旨に寄せ、一方で自分の「何も弄したくない」という気分が出てしまって中途半端に何もやらない人に……
— ロカルノ (@s_locarno) 2017年8月6日
最近は授業であいさつもしないくらいに適当に始まって適当に終わるからなぁ。本当に授業で何もしてません。手元にたくさん資料やネタは集めてあるけどほとんど死蔵です。薦めるのも憚られるような気分なのです。図書室に本棚を作ってもらうまではしてもそれを使えとは言わないしね。方法は伝えますが。
— ロカルノ (@s_locarno) 2017年8月6日
そのうち集合だけさせて、あとは一緒に本を読んだり書き物をしたりをする時間として、過ごせるようになればいいなぁと思ってる。
— ロカルノ (@s_locarno) 2017年8月6日
生徒には冗談めかして「君たちは自由に勉強できれば楽しいよね!そして俺は何もしないで給料もらえて幸せ!winwinだね!」なんて言ったりしますが、一緒に勉強していたいのですよ。その時々にしかできないことをやりたいのです。
アクティブラーニングにこだわる?
このブログをご覧の方はしょっちゅうアクティブラーニング、アクティブラーニングと私が言っているように思うかもしれません。
自分が影響を受けているのは間違いなく京都大学の溝上慎一先生です。
昨日の国語教育学会だと全然参考文献に名前が挙がっていないところを見ると、教科教育からは遠いのかなぁ……?
しかし、そのアクティブラーニングの定義が自分には一番、しっくりくるんだけどなぁ。
一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知的プロセスの外化を伴う。溝上(2014)など
この定義のポイントは「一方向的な知識伝達型講義」をベースにすることを乗り越えなければいけないことをはっきりしていることと、その活動の方法に「認知プロセスの外化」が必須であるということである。
この定義の背景は、まあ、上の書籍を読んでもらうとして、結局、この定義に従うのであれば、「主体的」や「協働的」でしかありえないということになる。
その上で「深い学び」をどうやって実現するかを教員が考えるという発想の仕方や、型を離れてカリキュラム・マネジメントの重要性を理解していくことにもつながる。
やっぱりここだよなぁ……
どうやら遠くまで来てしまっています
守破離もろくにできていないのに、どうも国語の本道から離れている印象です。