※なんて見栄えのしない写真を選んでいるんだ……。
さて、前々から楽しみだと宣伝していた未来のマナビフェスが無事……ではないけど(後述)、なんとか盛会のうちに終了しました。
非常に情報量の多い一日でしたので、少しずつレポートで内容を紹介していこうと思います。例によって、途中で飽きて投げ出す可能性もありますが。
本当は2日の予定が……
今回のフェスの注目度が高いのは、溝上真一先生や中原淳先生を始めとしたアクティブラーニング関係の新進気鋭の研究者が多く参加し、桐蔭学園を始めとした学校改革を断行し、成果を上げている学校も勢揃いするからです。
イベント自体も2日間にわたり、相当にボリューム感のあるプログラムで、二日目までたどり着けるかと思うくらいに盛り沢山でした。ところが……
台風13号にやられて、開催が危ぶまれるという状況に追い込まれたのです。この判断は非常に早かった。火曜日の夕方には連絡メールが来ていました。
この判断の速さは学校と企業の差を感じました。学校だったら当日の朝まで連絡出さないよなぁ。
なにはともあれ、非常に大きなイベントだったのが一日になってしまったのが残念でした。しかし、そのような逆境を乗り越えて、開催された昨日の大会は非常に有意義なものになりました。
オープニングセッション 京都大学 溝上慎一先生
最初に、このフェスの実行委員長である溝上真一先生から、この大会の目的や大まかな理論についての話がありました。本当は台風さえ来なければ90分の予定であったものが30分に圧縮され……ご本人曰く、「ダメダメな最低なもの」(tulipメーリングリストより)と言っていますが、駆け足ながら、色々と示唆に富む内容が散りばめられていまいた。以下にその内容をご紹介します。なお、脚注のリンクは、溝上先生のサイトから関連のありそうなページを私が主観で選んでリンクしています。
マナビフェスの位置づけとして
1.高大社の接続。色々な人に参加してほしい。
学校から社会への接続(トランジション)*1していくためには、それに関係する人たちが全員がお互いに何を考えているかなどを関わっていく必要があったが、そのような場がこれまではなかった。これを始まりにして、何度も交流・議論の場を重ねていきたい。
2.2030年社会をイメージしている
本当は2040、2050年代のことを考えて企画提案や打ち合わせはしていたが、流石に遠すぎるので2020年の先、2030年を一つターゲットとした。先の未来のことを考えている人はあまり多くない。
なぜ2030年なのかといえば、たとえば、学習指導要領のターゲットイヤーが2030年である。
今回の学習指導要領の改訂は、色々な側面で大改訂になっているが、それがただよい社会を作るためだけのものではないということを確認するべき。あと12年で学校がどれだけ変わっていけるのかを真剣に考えなければいけない*2。
そのような大変革を前にして、学校の取り組みが受け身、本当に子どもを育てようとしているのか。これまでの経験に依存しすぎである。受験が変わらなければ教育は変わらないという現場に対して苛立ちがある*3。
3.大学教育の現状
大学教育も20年前に比べれば相当に変化しているものの、それでも変わりきれていない。学生にとって学びの場になりきっていない。現在は大学進学率も変わり、知識社会になっていることから考えれば、学び方自体も変わるべき状況にある。
それでも大学の授業は良くなってきている*4。90年以降、教員が学生を引きつけるようになってきたが、教員が工夫して楽しい授業であれば参加するというようなものでは済まない社会になってきてしまった。
思考のために必要な知識の獲得は前提としても、深く思考する、議論やプレゼンができる能力が必要になってきているのである。*5当然、社会においても座学はあるので、座学ができないからアクティブラーニングはバカ野郎(原文ママ)である。
多くの大学ではよい授業はできるようになってきたが、学生を育てるまでたどり着いていない。教授パラダイムから学習パラダイムに転換できていない。
大学の5割を占める講義型の授業の改革がアクティブラーニングの最初の狙い。授業内では学生は学習活動を行うようになってきているが、授業外の学習時間が増えていないことに課題が残っている。
3.社会の変化・人口減少・学校の社会的機能の見直し
今まで学習として、外化、他者との協働という要素は個々にはそれなりに行われてきたが、学習として組織されていなかった。*6
社会は課題だらけであるが、その課題に対して議論できるような大人にこどもを育てているだろうか*7。
今の大学の仕組みでは、大学では学生を変えることはできないどころか、下手するとダメにしているのではないかという調査結果がでている。
2008年くらいから大学改革を進めてきたが、10年経った現状ではその成果が出ていない。大学の立場としては、授業のあり方などはかなり大きく変わったといえるが、学生が期待するほどに変わらない。遡ってみると、高校2年生の秋くらいから持っているものがなかなか変わらない。
絶対に変わらないということではないが、早く手を打てることはある。大学から高校へ降りていき、変えていく意義がそこにある。
まとめ
2030年の時点では日本はまだ余力がある。しかし、その先の社会はかなり人口減少など様々な面で、キツくなるはず。その先の未来のために今ここで教育を変えることが出来るか。
感想
とりあえず、宣伝に載せられて(厳密に言えば、ちゃんとデータを読まないとダメだと思ったからですけど)、『大学生白書』は買いました。
とりあえず、宣伝に乗せられて買いました。 pic.twitter.com/1R4ZBXVCLt
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年8月10日
これは大半は統計データなので専門知識がないと妥当性の検証は無理です、自分には無理です。
ただ、前半部分にデータの解説がついていますので、ここを読むと大体の結論が見えます。
このデータを見ると、高校の教員としては「問題の先送り」をすることの無責任さを糾弾されているような気持ちにはなります。実際問題、「こういうところが良くないよなぁ…」とわかっているのに、色々な理由で手を打てないで先送りにされてしまうことは数多くありますし、自分一人が授業で頑張ってもなにも変えられないということもあります。
今日、『大学生白書2018』 https://t.co/ZCDUuXARNg が先行販売されていたので買ってきましたが、これを見たら中高で入ってきた生徒をしんどいと言って問題を先送りにはできないなぁとは思う。キッツい現実があるのも重々わかるが、先送りすればするほど更にキツくなる。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年8月10日
溝上先生の問題意識の出発点は、とにかく早くから手を打つことの重要性にあるように感じています。
アクティブラーニング型授業の基本形と生徒の身体性 (学びと成長の講話シリーズ)
- 作者: 溝上慎一
- 出版社/メーカー: 東信堂
- 発売日: 2018/03/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この本の中でも述べられているように、協同できない、話し合えない、課題に全力を尽くせない……そういう姿が、仕事・社会における生徒の姿そのものなのだ。そのことを裏付けるデータから、とにかくできることから、早くから手を打っていくことを強調するのである。
しかし、なかなかこの危機感の共有が遅々として進まない感じは、学校にいると強く思う。
今日の未来のマナビフェスの一番の教訓は、なにを見て教育するかが立場で違いすぎるということ。足元をきちんとみることも必要であるけど、どこに向かっているのかという視線も必要。どうしても学校にいるともう少し遠くを見たほうがいいとは思う。少なくとも入試で何か考えることからは脱したいところ
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年8月10日
教科の専門性、教員の専門性という話になってくることだろうけど、入試を上手くやることで高校の教員は責任を果たしたかのような感覚に陥りやすいが、もう少し遠くを見通して、キャリア意識や学び方そのものにどう子どもを結びつけて行くのかを、長い目で見られることが必要かなぁと思う。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年8月10日
そりゃあ、少しでも本人の満足する入試結果になる方がいい。でも、それだけでは足りなくて、社会に出る前に圧倒的に生徒を拘束している教科の授業そのものか社会での生き方を少し今よりも遠くを見通しておくことは必要なんだろうなと思う。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年8月10日
教科の学力とは何か、教科内容とは何かということの蓄積を振り返りつつ、教科の枠に縛られないで一体、何を六年なり、三年なりで達成していくのかということを考えないとなぁと。どうしても今、多く目につくことは、明日の授業のことであり、その校種、教科にしか目が行ってないものだからね。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年8月10日
教科教育学の中でも「学習内容」とは何か、「学力」とは何かというような議論や成果はいくらでもあるが、結局、教員の価値基準の多くは「入試」である。入試との関係でしか授業を考えられないということが多すぎる。
学問の本質をわからせるみたいな議論も、入試問題さえ解ければいいという発想も、どちらも目の前のことしか見えていないように感じられる。別に教えるなということではない。ただ、その「教えたい」と願うことが、目の前の子どもが将来、どのような姿になることをイメージして、授業しているのかということが問題である。
では、どのような姿をイメージすればよいのか……その一つの手がかりが、次稿に書く「能力」や「資質」を定義しようという各種の試みである。
学校現場としては……学校として、地域や学校の伝統を踏まえて、練り上げた教育目標に向かうことなのだと思うが……まず、どういう教育をしたいかということについての、教員同士の対話があまりに少ないかもね。
*2:(講話)施策の「社会が変わった」という説明を教育現場は繋げて理解していない
*3:(講話)高校生の半数の資質・能力は大学生になってもあまり変化しない-10年トランジション調査
*4:(講話)大学教育(教える・学ぶ)は変わってきているのか-高校関係者向けの説明
*5:(講話)アクティブラーニングはなぜグループワーク、プレゼンテーションを強調するか
*6:筆者注:よく今までの教育と変わらないと強弁して批判する人が目につくが、問題の本質を理解していないと言えるだろう。今までになかったのではなく、組織的、計画的、体制的に、狙いを持って効果の検証のサイクルまで含んで企図されていなかったということが問題の本質であろう。
*7:(理論)アクティブラーニング論の背景 v3の後半部分など