GWの谷間に嫌な話に付き合わされた。
授業について生徒をやる気にさせるには試験を増やすしかないという意見について延々と議論することに付き合わされたわけだが、はっきり言ってどうしようもない。非常に生産性のない議論だったと思わざるを得ない。
評価をはき違えている
試験を増やす増やさないの話を始める時に、その根底に「生徒が授業に対してモチベーションが高くない」ということが透けて見える。
しかし、生徒のやる気や勉強への意欲を引き出すのに、いくら受験生とはいえ、考査を課せば、その気にできると思っているのは、発想がなんというか…貧困である。
別に教員の創意工夫で簡単に生徒をやる気にさせることができるとは思わんが、考査で縛らなければ授業として必要なモチベーションを引き出せない程度の授業のやり方は、先に見直してしかるべきなんじゃないかなぁ…と思うのである。
そして、試験を課すからには評価の問題が出てくる……なんてことを言っているが、そもそも、考査があろうとなかろうと「評価」は教育・授業の一環として構造的に行うべきなのです。
いくら「受験」に向けた演習の授業だとしても、学校の授業として、生徒を拘束して何かを強制しようとするのであれば、最低限、生徒の成長のために適切な評価をフィードバックする責任を負っているはずである。
試験をやるなら評価を出す(評定をつけるが正しい)だの出さないだのと揉めること自体、普段、試験もしなければ評価もまともにしないのかと思うのである。
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こういう難しいことを言おうというんじゃない。
ただ、普段からちゃんと生徒にフィードバックしていないのかよ…と思うのである。
思えば、評価については昨年度末も嫌な思いをさせられている。こちらは考査以外にもあらゆる質的な情報を記録として取っているのに、担当でもない他の教員から提出した成績について物言いをつけられて、結局、自分の満足できる評定を生徒に与えられなかった。本当、越権行為をされた気持ちしか残っていない。
教育のために考査は必要か
今の学校制度では当たり前のように考査をやれと言われている。
正直、自分としては考査は要らないという気分になりつつある。まあ、あくまで気分なので、何が何でも制度を変えるべきだとまでいうほどの気概もない。
ただ、結局、「考査があるから勉強する」という構図がもたらしているデメリットが大きいんじゃないかなあと思うのである。
先の「勉強させるために考査を作る」なんて、そのバカバカしい弊害の最たるものであるし、子どもにしたって「テストに出ることだけ覚えればいい」という姿勢になりやすい。そりゃあ、考査で10教科も受けていれば、腰を据えて勉強する余裕もないので、そういう自然になるのにも合理性はあるわけで。
教員も生徒も省エネに走れば、それこそ授業にエネルギーを使うこともばかばかしくなる。何かじっくりと腰を据えて文章を読んだり書いたりするよりも、テストに出るところだけやっていれば、点数もとれるしラクだし、合理的である。
そうして、何も考えないで、形を表面的にだけなぞる勉強のしかたが拡大していくのである。