「バンザイシステム あてにならない」で検出流入が増えているのに、受験生の悲痛さな気持ちを感じる今日この頃ですが*1、学年の授業がそろそろフィナーレです。いよいよ最終単元へ。
何を教えているのか
教員が持てる専門なんてたかが知れていることを注意深く警戒しておかないと、なんでもかんでも語れるつもりになってしまう。それぞれの専門を学ぶことは時間がかかるのである。じゃあ教員の専門ってなんだろうね?たかだか本をたくさん読んで知識を集めるくらいではなかろう。知識の寄せ集めでもない。
— ロカルノ (@s_locarno) 2020年2月11日
入試問題を教えることは、普通にそれ以外の仕事に追われている学校現場では、予備校の先生方に敵う余地はない。入試の解説は、物量がものをいうのである。頭のいい人たちが時間をかけて分析しているものを、片手間の仕事では敵うべくもない。金を払ってでも学びますよ、その知識は。
— ロカルノ (@s_locarno) 2020年2月10日
最近、学年のゴールが見えているので、いったい、どうやって終わりを迎えればよいか、何を考えればいいかということ迷っているところである。
最後の単元は小説であり、小説はどこまで何を読むべきなのかということに難しさを思うのである。授業を考える上で参考になることは
自分が文学に全く素人程度しか知識がないので、定期的に勉強しなおす羽目になるが、付け焼刃で勉強したところで、文学的にセンスのよいことなんてやれやしない。
文学的なレトリックや味わいや面白さをきちんと触れておくことで、生徒たちが将来自分の人生の選択肢の一つに、文学を手に取ることを知っているくらいには、きちんと小説を読むことや語ることを教えて、卒業させたいとは思うが、文学研究をやらせたいわけでも文学研究の凄さをひけらかしたいわけではない。
自分がこういう話を読むことは楽しいけど、それをそのまま生徒に伝えることにあまり意味を感じないのである。
詰め込みに走りがちだが…
授業数がない中で、授業として形をまとめようと思うと、ろくなことにならない。結局、必要なことを教えてしまおうと、詰め込みになってしまう。
時間をかけて理解したことは、どのような形であれ、自分の知識として活きたものになるのだが、時間を惜しんで覚えたつもりになったことは、すぐに忘れるのである。
最後に一年間を振り返った時に、結局、よくわからないものの総和にしかならないようなことにならないといいな。
*1:なお、バンザイシステムは100%あてにはならないけど、大規模な傾向としては正しいので、自分の教科の得点力にあわせて、どこなら逆転できるかという戦略を練るものである。