考査前になすべき雑務を為し終えつ。
仕方ない。台風の影響まで考慮して準備しないと身動きがやがて取れなくなる。
とりあえず、明日からは少し落ち着いて過ごせそう。ただ……羅生門をどうやって授業しようかね……。
ちょっとした戯言
国語科のお仕事は親学問の真似事ではないよという話をしていて次の文章を思い出した。
— ロカルノ (@s_locarno) 2019年10月8日
いうまでもなく国語科は教科の一つで、学校の教育目標を達成するために存在するのである。(中略)それゆえに、国語科の学習の単元の題目が、他の教科と関連することはむしろ当然のことである。社会科の学習の中には、言語活動がたくさん含まれており、他教科においてもそれは同様であるから、
— ロカルノ (@s_locarno) 2019年10月8日
国語学習指導の仕事は、すべての教師の協力なしに達成されるものではない。国語教師は、すべての他の教師の助力を得、他教科とよく関連を保って指導にあたるべきである。そしてどのような教育課程を採用したにしても、生徒のことばの力の発達に責任を持つのは、国語科の教師である。
— ロカルノ (@s_locarno) 2019年10月8日
新しいこと言っているようで、ちょっと昔なんですよ、この文章。70年くらい。
— ロカルノ (@s_locarno) 2019年10月8日
昭和26年高等学校学習指導要領(試案)の一節である。
試案は様々な面で、特殊であり、熱意に溢れている。
今の立場からすると、少し空回りして見えるくらいに、エネルギーがある。
国語の教育課程は、現代生活の必要に応じなければならないし、生徒のひとりひとりの必要と興味と能力とに合っていなければならない。また指導は、教科というわくにとらわれないで豊かな言語経験への機会を与えるのによいようにしなければならない。いわゆる経験教育課程においては、教科目教育課程の場合よりも、評価ということがいっそう重要になってくるのであるが、ある単元を選ぶ場合には、それがほんとうに生徒の必要と興味に合い、さらに社会の必要に合っているかどうかを見なければならない。また単元の学習の結果ばかりでなく、その単元の進行中も絶えず学習を評価すべきである。これによって学校および教師は将来もっとすぐれた指導計画を立てることができる。このように評価ということは、新しい教育課程にとって欠くことのできない一部分となっている。
評価についての指摘だが、今でも結局同じである。
脈々と、受け継がれてきたものがあるのである。経験主義の挫折はよく言われるが、それでもなくならないで残ってきたもの、大切にされてきた価値観を思うのである。
日々に這いずり回るからこそ、遠くを思ってしまうのである。