昨日は全国大学国語教育学会のオンライン公開講座だった。
【企画趣旨】
ICTをテーマとして、公開講座を企画した。もちろん、一言で ICTの活用としても、各言語活動の領域に展開されており、それぞれについての実践のノウハウも蓄積されてきている。全国大学国語教育学会の立場としては、公開講座で扱う以上、なにがしかの提案性が必要である。そこで、ICTの特長のうち、様々な交流を促進する部分に着目し、学習共同体の拡張、ということをテーマとした公開講座を企画した。
学習共同体の拡張とは、これまで主に交流の場であった学級内という枠組みを取り払い、学年全体・学校全体・同校種他校・異校種他校などに広げていこうとする試みである。異学級・異学年・他校・他校種との交流は、「異質なものとの出会い」の場の創出と位置づけられる。ICTの活用によって、このような交流のハードルを、ハード面で低くすることができる。この特長を活かした授業実践を構想・実践し、その様子を公開講座の場で示しながら、学習共同体を拡張することの可能性のみならず、ICTを介することで失われてしまうことなど、様々な側面からの議論を通して、ICTの活用についての知見を深め、共有することが本講座の目的である。
第1回では、「話すこと・聞くこと」の領域に焦点化し、授業実践を試みる。話し合いや発表について、普段接している学習者のみならず、教室外の学習者との交流によって、様々な側面から自身の言語活動を見直す契機を創出することが授業実践の目標である。公開講座の場では、話すこと・聞くことの領域を専門とする研究者が、授業実践について検討・講評を行うことでICTの長所・短所、従来の授業実践との差異や今後の展望などについて考察を深める場としたい。
(2022/10/10確認)
他の仕事をしながらにはなったが始まりから終わりまでずっと見ていた。
ずっと見ていたのだけど、自分の中で全く上手く消化できないでイマココって感じです。
違和感があるけど言語化できない
ずっと昨日から歯切れが悪い。
全国大学国語教育学会の公開講座。
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年10月9日
やっている試みは面白い。でも、イマイチ何を論ずるべきか、何が勘所なのかを自分が理解できないでモヤモヤとしている。
また、ICTの活用としてもなんだかモヤっと納得いかない自分がいるんだが、何が引っかかるのか分からんでお手上げ。
提案授業などについての批評は大会の中で言えよという話なのでここでは書かない。
そもそも授業の良し悪し云々と言うことに対する批判意識と言うよりは、何だか論点が上手く理解できないで困っているという感じである。
先に引用した「企画趣旨」の内容と提案された授業もイマイチしっくりと噛み合っている感じがしない。
また、国語科の授業づくりの問題なのか、ICTの活用についての議論なのかも自分の中だと何だかはっきりしないで混乱している。
これは企画や提案者の責任ではなく、全て自分の方の責任である。自分が何だか軸足がぐらぐらとどこにいるんだかよく分からなくなっているせいで、何に集中して見てよいのかが分からなくなっているとも言える。
今回の内容についてはICTの活用をテーマとした授業としては見ない方が良いかな。国語科の中の「話すこと・聞くこと」や話すことをどう見取るのかということや教員の授業観の振り返り方みたいな話で、ICTについて話している感じはないので。
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年10月9日
ICTについてばかり考えているから、今回のテーマが上手く消化できていないんだな、自分。ちゃんと国語科の授業として考えておいたほうがいいか。
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年10月9日
うーん…でも、国語科の授業とICTを不即不離な関係として講座のテーマ設定している感じがするので、分けて考えない方がいいのか、本当は。
ICTの活用として考えると
グチャグチャしていても仕方ないので気になったことを分野に分けて少し棚卸してみる(本当はツッコみたいところも山ほどあるんだけど、自分の中の整理が出来ないので踏み込めない)。
まず、ICTの活用という側面で見るのであれば、ちょっと物足りなさはある。ICTを使ってオンラインで教室を外に繋ぐという試みは、今回のように生徒同士の出会いという形では珍しいとしても、様々なところで行われている印象がある。それこそ国語科以外にまで目を広げると更に実践例は増える。
ゲストティーチャーと教室を繋いで子どもたちが対話するって実践は割と見る気がするし、上手く話せているような印象を受ける。目的意識なのかなあ、やっぱり。
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年10月9日
また、「初対面の他者と出会う」という点はやや新しい観点だとは思う。ただ、一斉休校の際に、入学して一度も会ったことがない同級生とオンラインで初対面をする…ということが実際に既に起こっていたことは見直した方がいいかもしれない。実際にあのときにオンラインで人間関係を作るということは問題になっていたように思う。あのときに出来たこと、出来なかったことを踏まえて、じゃあ学び合う集団とはどういうものなのかという観点は考えてみたいところ。
一斉休校の時とは逆に、基本的にはこの授業、単元限りで終わってしまう人間関係でしか学べないこと、実践できることは何だろうか?
ちょっと意地悪なことをいうと、生徒はSNSで見知らぬ他者とコミュニケーションを取るということは、程度の差はあれど経験してきている実態はある。ビデオ通話は稀でも音声通話くらいはあるみたい。そもそも教える側が生徒のデジタルライフを知らなすぎる問題はある。
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年10月9日
上のツイートにはツッコミをいただきましたが、オンラインの日常的なコミュニケーションは匿名性が強い。じゃあ、そこと教室の対話の差は?
考えることが多いなぁ……整理されてこないとちょっと今の自分には何を言ったら良いか分からない。
国語科として考えると
ICT活用という視点ではなく、国語科の「話すこと・聞くこと」の単元として考えるとどうか。
「話すこと・聞くこと」はその教室の文化そのものになるからこそ指導はかなり慎重にしたい。だからこそちゃんと話したり聞いたりするに値することを見つけてこないと授業で「話せ」「聞け」という指導になってしまう。無意識にできてしまっていることを授業として立ち上がらせてくることのむずかしさ。
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年10月10日
一日おいて思いついたこととしてはこの程度のこと。あまりよいアイデアはない。
やっぱり単元として気になることとしては、オンラインで繋ぐことがどうしても先に設定されているので、子どもたちに初対面の他者と話す必然性が難しいということが、単元がすっきりとしない原因にはなっている感じはある。
「話すこと・聞くこと」の指導が難しいのが、「子どもたちにとって真剣に話すに値する話題を設定する」ことに尽きる。同じ教室で同じ文脈を共有していても対話に値する話題を見つけていくことは難しいのだから、文脈を共有しないのであれば相当に厳しい。大人のオンライン会議との差としてそこは大きい
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年10月9日
公開講座の参加者同士は目的を共有して参加しているから、初対面でもおそらくブレイクアウトルームに放り込まれても適切な対話は成り立つ。でも、授業で「さあ、やろう」となると途端に不自然に嫌な空気になりやすい。教室のギャップをどうするかはちゃんと考えたいところ。
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年10月9日
企画の趣旨から考えると実際に繋いでみて、そこで起こる学びや学習集団の変容などを検討していることに意味があるということも分かる。そのため、一概に「設定が悪い」とは言えない部分もある。
ただ、一体、初対面の他者とオンラインで話すと言うことをどう位置づけたら良いのだろう?大人であれば目的があるから出会うわけだけど、教室であれば与えられた出会いになる。その質的な差が話すことや学ぶことにどんな影響となって表れているのだろう?そして、その「一度きり」かもしれない対話から何を教室で学ぶことになるのだろうか。
はっきりとした見通しや納得できる理屈がまだ分からない。
注意
全体的に見ると苦情のような書きぶりになってしまっているのだが、基本的には自分の中の未消化の部分に過ぎません。講座の問題ではないです。
他の納得できた部分やなるほどと思った部分は今回は言及していないだけで。
消化できない自分の視界の悪さをどうしたものかと持て余しているわけです。