休日出勤で割とへばっているので簡略で。こんなツイートをした。
『国語教育研究』No.595の住田勝先生の論考の中の一文「対面ができなくなったことを言い訳に、オンライン上に一斉授業(大学は講義形式)を再構築することには、あまり興味が持てないでいるのだ」(p.9)には心から共感します。休校の初期には一斉授業にせざる得なかったが
— ロカルノ (@s_locarno) 2021年11月3日
そこからあらゆる手段を得て、それこそコロナ前に比べても教室の学びを増強するツールは増えている。ICTに限らず、授業のための取組が一気に蓄積されたはずである。それは教室での他者のいる学びの必要性が再認識されたからではないか?一方的に教えるだけでは足りないことを重視したからではないか?
— ロカルノ (@s_locarno) 2021年11月3日
一斉授業の伝達効率のためだけに対面授業を求める姿勢に対しては厳に対抗していかないとならないと思う。ツールを使えない、使わないことで、二年の蓄積をふいにして時間を巻き戻すことには抵抗しなければならない。現場はいつでも綱引きです。
— ロカルノ (@s_locarno) 2021年11月3日
ICTや学び方をめぐって、微妙な綱引きが現場では続いています。
「ポイント・オブ・ノー・リターン」だろう
コロナの影響を受けて、GIGAスクール構想は強力に前倒しされて、実際に生徒に一人一台環境が実現できてしまっている。また、実際にオンライン授業をせざる得ない状況に陥ったので、オンライン授業の授業のノウハウも溜まっているし、生徒のレディネスにもオンライン授業に対するものが育ちつつあると言えるように思う。
厳しい評価をするならば、「公平で平等な学びの保障」という点ではまだまだ改善の余地はあるのかもしれないが、大混乱を乗り越えただけあって、学校や教員の間にはICTを使った授業のノウハウは確実に経験値として溜まっている。
生徒の考えを即座に可視化したり、生徒のアウトプットを促進したり、クラスの中での共同作業を取り入れたりと、これまでのアナログでは難しかったことが、気軽に実現できている状況も生まれているし、それによって授業のスタイルが変わったりこれまで気づかなかったことに気づけるようになったりしている点は大いにあるのだ。
日々、使う時間が増えるほどに、もう授業についての考え方をなかった時代に戻すことは出来ない、ポイント・オブ・ノーリターンを超えたという感覚が強いのだ。
そして、ICTの最大の特徴は、個別化の道具であるということである。
授業や教室にICTが入ってくると言うことは、確実に一斉授業だけでは上手くいかなくなる。少なくとも悠長に「一斉授業がちゃんと出来てからICTの指導が出来る」のような言説で、生徒のICTの活用に足踏みをさせるような指導は成り立たなくなっていくだろうと思う。
教える側の都合ではなくて
何でもかんでもICTを使えば魔法の杖のように解決するなんて考えるのはさすがに愚かであるが、ICT端末によってこれまでは出来ないことが実現できている状況をよく考えた方が良い。特に注目して考えるべきは、アナログでは表現が苦手だったがデジタルの支援を受けて表現が出来るようになった層である。
今までできなかったことが、出来るようになる喜びは非常に大きいのだ。
教室の中に端末を持ち込むことがチートのように思われて来たのがおそらくこれまでなのだが、GIGAによって当たり前に端末が教室にある状況になれば、必ずICTで表現の喜びに近づける生徒が増える。
そういう生徒の喜びをきちんと吸い上げて、授業に反映したいものだと強く思う。
紙やアナログの表現も、生徒自身が選べればそれはそれでよいのだ。
問題なのは、ICTという選択肢だけは何故か大人が縛りをつけて、道具としては生徒に委ねないということにあるし、一斉授業の都合によって個別にやろうとすることを取り上げてしまうことにある。
もう、コロナ前の手段が限られた対面授業には戻れないところには来ていると思うのだが……。