本日のTwitterでのつぶやきのまとめと補足です。
共通テストは、入試問題対策なんかですぐに対応できるようなものではなくて、真っ当に読み書きの練習を授業で地道にやってきたことでちゃんと評価されるようなものであってほしい。
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年11月9日
特に「現代の国語」の授業を今までと変わらずに、ただの評論の読解と解説だけをひたすら読むこと偏重でやっているような姑息さが見直されて欲しいものだと思っています。
「読むこと」の偏重で見落としているものがあると、自戒していかないとダメなんだと思いますよ。
試作問題については、時間内に終わるかどうかについては結構厳しいと疑問はあるんだが、出題の方針に関しては、学習指導要領や教科書を真っ当に取り組めば、授業で十分に学習経験が得られるものであると思う。国語のテストで横書きやグラフがあることに過剰反応している人たちもなんだかいるけど…
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年11月9日
問題としてバランスが適切かはちょっと怪しい。分量の多さはかなり苦しいので、もう少し減らしても良いのではないかと思う。別に横書きやグラフが国語でないなんてことはない。
現行の「現代の国語」の教科書は、たくさんの資料や横書きの文章も大量に出ている。今更、試作問題が出てきた段階でこんなに大騒ぎになるのが不思議だ。大騒ぎしている中に、高校の国語の教員もちらほら見えるんだけど、普段どうやって現代の国語を教えてるのかしらん…
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年11月9日
子どもたちの実際の日々の生活を見ていれば、試作問題で出てきたような一つ一つの言語活動は国語科が責任持たないでどうするのよ?と高校生の生活を見ていると思う(一つ一つは、であり総体として入試問題として適切なバランスかは留保がある)。時間に対するバランスは疑問でも情報量の圧は必要かと
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年11月9日
情報量を処理することを国語科に限らずに、どの教科も「こんなの教科の学力じゃない」と吐き捨てますが、適切な場面で教科のものの見方・考え方を適切に発揮できるかどうかは、情報に溢れる生活の中で主体的に生徒自身が知識を使えるかにかかっているわけで、そういう経験は授業でも必要では?
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年11月9日
「現代の国語」の教科書はかなり強烈にどの会社も変わっているのですよ。教科書の中身を見ないであれこれというのはやっぱり議論としてはあまり意味が無いと思っている。
教員がコンテンツを準備してあげて、整った内容だけを効率よく理解することは必要でも、たった一台のスマホがあるだけで急に整地されてない場所に投げ込まれるのが今の生徒の生活である。だからこそ、知識を効率よく教えつつも、その複雑で厄介ごとを孕み込んだ現実を見据えて授業の経験を豊かにしたい
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年11月9日
結局、「教えたいことを勝手に教える」という態度でやってきた節のある高校の授業へのレッドカードなのだと思っている。上手くいっているうちはよかったのかもしれないが、だんだんと歪みが出ていたり社会からもズレていたりすることを自戒できれば…。
ICT端末で答えを調べられたら教えることがなくなるような授業ではいかんのですよ。もちろん簡単に調べて出てくることに本質なんてないかもしれない。でもそういうことを納得して学びに謙虚になることを教えられるのは授業の経験でしょう?綺麗に整地された場所だけでその厄介さに取り組めるかという話
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年11月9日
試作問題のような圧倒的な情報量を授業で扱おうとしたらICT端末を使う事は避けられないだろう。授業の中で子どもたちが触れる情報量を爆発的に増やすには、ICT端末だ。子どもたちが扱う情報を制御なんて出来ない中で、どうやって「教科の本質」を教えるか。そういう教えることの挑戦が必要なのでしょう
— ロカルノ (@s_locarno) 2022年11月9日
ICTが教室にとって厄介なものとして扱われ続けている限り、状況の変化はないかもしれないなどと思うのである。