ちゃんと伝えようとすると、言葉がついキツくなる。面談の時期なので、伝えるべきことを伝えなければと思って話をしていると、つい油断すると言葉がキツくなる。
しかし、そうやって厳しい言葉をぶつけなくても、本当に丁寧に言葉を使おうとするならば、伝わるべき言葉は伝わるように話すことができるのだ。
忠言耳に逆らうとは言え…
耳に痛いことを耳に痛いまま伝えても、相手の中には入っていかない。
正しいことを言っても言葉の形によっては、攻撃とみなされて、正しくない言葉としてこちらが謝罪しなければいけないこともあろう。
人によってはわざわざ聞きたくない言葉を人に対して痛みを押し付ける形でぶつけようとする悪辣な場合もある。そういう言葉を続けていると、どこかで責任を負わされることにもなるだろう。非常に危うい。
言葉をわざわざぶつけてみようとする必要はないのである。必要があれば丁寧に手渡せばよいのである。
厳しくても温かみがある言葉
現在、『国語教育』では授業づくりの連載がある。
各号の特集記事の後に毎月、異なる題材での授業づくりが掲載されている。
その連載の一つで、各号の連載にコメントをしているのが、石川晋さんである。このコメントが各回非常に秀逸なのだ。
比較的、粗削りで懸命に何かをしたいという熱意のある授業案に対して、しっかりと親身に受け止め、その授業の教室にいるかのような立場から、授業者が「こうしたかったのだろうな」という方向性をスパッと切り込んでいる。冗長ということもなければ辛辣であるということもない。
まさに受け止めて、相手のために引き出すという言葉の使い方である。
(余談だけど、今回の特集が「発問」だったことを思うと、まさに国語の「発問」てこういうことなのだろうと思う)
他の先生方のコメントは、まさに「指導言」というべきものである。これはこれで非常に正しい。しかし石川晋さんのコメントは決して「指導」ではないのである。この微妙な違いに、本当に大切な言葉の力を感じるのである。
どうすればたどり着くのだろうか
こういう言葉を生み出せる胆力はどこから生まれるのだろうか。どういう歩みを、どういう教員としてあり続ければ、たどり着けるのだろうか。
相対的に見て、自分はつくづく国語科の教師に向いていないと思うのである。世界の見え方が、もっと言葉で豊かになってくることを、いつの日にか期待できるのだろうか。
先はいつまでも続いていくのだ。