ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

「山月記」を読むことが生徒に難しいのはなぜか

Tiger

「山月記」もそろそろ終盤。

今後の自分やこれから「山月記」に挑む人のために、自分が教えていて生徒がひっかかっている部分や自分が「山月記」に取り組むときに重要だと思うことを少し書いておこう。

まあ、忘備録としてメモ書き代わりに書いているので、順不同で整理もされていないのはご了承ください。

語彙というハードル

「山月記」の特徴と言えば、中島敦らしいあの漢文調の文体ですが、それが今の生徒にとっては拒絶感に繋がりやすい。

どうしても漢文が入試で必修でないことも多く、漢文を初めから放棄している生徒も多いので、「山月記」の文体が高いハードルになってしまう。

何度も我慢して読んでもらえれば、語彙が難しいだけで描写や説明は非常に簡にして要を得る優れたものだと分かってもらえる。それにしばらくすれば語り手が李徴に交代するので、普通の口語調の文体になり十分に言葉の意味も内容も理解してもらえる。最初の数ページで心を折ってしまうのが非常にもったいない。

もしかしたらいきなり「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」の方から読ませたほうが生徒は面白がって読むかもしれない。でも、そうなると主題を誘導しているような授業になってしまうので面白くない気もするし、やはり禁じ手な感じはする。

安易に納得したくなる語り

「山月記」が定番教材の中でも比較的人気が高い理由としては「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」という殺し文句が強烈だし、李徴という人間の挫折の物語は悲劇としては分かりやすくて共感しやすい。

しかし、そのために「李徴が挫折して人間と決別する話」という物語を読んで、この物語を読めたつもりになってしまい、それ以上に意味を考えようとしなくなってしまう。

その読み方は基本的な読み方としては大きく外れていないし、悪くないのかもしれない。でも、丁寧に読むと違う可能性も出てくる物語だけに、もったいない感じはする*1

まさにこの前紹介した話の問題。 

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人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)

人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)

 

人は自分にとって納得できる物語しか読まないということが問題なのだ。

教室で読むからこそ自分の納得できる物語に安住しているだけではいけないと思うし、その問い直しこそ生徒には難しいだろう。

自分と登場人物を区別できない

上の問題とも関わるのだけど、山月記は李徴の一人称の語りであるため、読者である自分と李徴の考えを区別して読むことができないことが多い。

「羅生門」で自分と下人を混同して読むことは殆ど起こらないことに対して李徴と自分を混同して読むということや、袁さんの心情が描かれていないために、自分を袁さんに置き換えて読んでしまい、袁さんの気持ちを勝手に忖度してしまうのである。

もちろん、そういう自己に寄せた読書も悪くない。しかし、それを誰か他者に伝えるとなると、誰にでも納得される読みではなくなり共有されにくくなる。そうなるとやはり協働して教室で読んでいく意味がない。

また、なんでもかんでも自分の興味関心だけで解釈するという態度をよしとするのは、国語科としても「学力」を育てたことにはならないでしょう。

難しいことは言わないとしても、子どもが自分と他者の区別があいまいであることを考えると、高校生くらいになったら自己の経験に頼らないような読み方ができてもいいよなぁと思う。

答えられない問いが多い

個人的に「山月記」の最大の難しさだと思うのがこの点だ。「山月記」の中には「山月記」というテクストだけでは「回答不能」な謎が数多く残されてしまっている。厳密に言えば、それこそ個人の自由に読めばよいことであるし、一つの答えに決めてしまうことこそ野暮なのである。

例えば「李徴はなぜ虎になったのか」という最大の謎についても、決定的なことは言えない。不用意な国語のテストであれば、そういうことを質問して答えに「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」を答えさせるようなことをやるのだけど、もちろん、その答えは大いに問題がある。その問題点を論ずるのに「人虎伝」だとか中島敦だとか持ち出す必要はない*2

「李徴の詩に欠けるものは何か」「「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」とは何か」ということだって、それっぽいことはでっちあげることはできるけど本来的にはそれは国語の試験に出すには、慎重な文言を使わないと不適切になるくらい、はっきりと書かれていないことだ。

だからこそ、自由に読む余地であるし、様々な読む可能性を引き出せる部分を大切に読みたい。でも、多くの場合、上の部分を試験に出したいために生徒の読みを誘導している授業が多い…というか指導書がそうなっていますよね!?

テクストの外の情報が多すぎる

周知のとおり、「山月記」には元ネタがあり、それは「人虎伝」と呼ばれるものだ。国語の実践で、それぞれを読み比べるという実践も多いのだけど、個人的にはそれはあまり意味があるようには感じていない。テクストはテクストで十分に完結して書かれているはずなのだから、外から文脈を持ってくるのは拙速だろう。

中島敦本人のことを持ち出すことはなおさら、ね。

でも、最近の国語便覧だとかは大きなお世話というか親切というかわざわざ人虎伝や中島敦のことを山月記に絡めて解説が書いてあったりだとか、生徒に余計な情報を与える環境が向こうからやってくる(笑)

テクストの外のことを持ってきて、深読みしたというのはやっぱり文学ごっこ、悪く言えば妄想以上のことは出てこない。書いてあることから共有可能な読みの可能性を引き出すこととは一線を引くべきだろうと思う。

多様な可能性を持つ素材なんです

「山月記」に頭を悩ませていて思うけど、国語の小説の定番教材はやはりよくできている話が多い。

これだけ多様な可能性を引き出せて、高校生に背伸びさせて読ませるのにちょうどい教材は、ちょっと他には簡単には思いつかない。圧倒的な先行実践の量を考えても、軽々と代替はしにくい。

もっと、いろんな可能性を引き出したかったなぁ……次にやれるのは何年後だろう。

*1:世の中の一定数の国語教員に喧嘩を売った気がする。

*2:教室での読解はあくまでテクストで読めばよいだろうと思う。テクストの外を持ち出すと途端によくて文学ごっこ、悪くすれば妄想で納得したつもりで終わるからね。

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