「山月記」の授業も中盤戦へ。
いよいよ山場の「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」を読んでいくことになる。
果たしてどうなることやら……。
自分の授業進行は正しいのだろうか…
生徒の反応を見ているとこれで大丈夫なんだろうなという気持ちもあるけど、一方で本当にこれで大丈夫なのかということについては確信が持てない。
自分にとって「読むこと」とは何かという明確なイメージがないということが決定的に授業に確信を持てない原因である。特に文学になってしまうと、もう自分が圧倒的に文学を読む経験が足りていないから、何が正しくて何が外れているのかということも分からない。生徒の感想や読みの考察を読んでも、それが本当に高度なことなのか意味があることなのかということについては自信が持てない。
「アクティブ・ラーニング」を生かしたあたらしい「読み」の授業:「学習集団」「探究型」を重視して質の高い国語力を身につける (国語授業の改革)
- 作者: 「読み」の授業研究会,阿部昇,加藤郁夫,永橋和行,柴田義松
- 出版社/メーカー: 学文社
- 発売日: 2016/08/31
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この本の中の石井英真先生の「教科する」という発想にできるだけ近づけたいと思って毎回の授業を考えているし、生徒のノートを毎回集め、コメントをつけ、グループ分けを考え、投げかける課題を設定して(×6クラス)、授業をできるだけ生徒たちの「交流」や「振り返り」のための時間として使えるようにして、とにかく作品について考えて、言語化することに集中してもらっている。自分が、教員が出しゃばらないように。
生徒の変化は少しずつわかる…
自分のほうが手探りだというのに生徒のほうが期待以上に頑張ってくれているなぁと思っている。
生徒のその日の振り返りを見ると、「関連付けて読む」や「こうなるはずだと予測して読む」ということに言及する生徒や「自分の最初の読みは〇〇だけど、今はこの観点から〇〇だと考えている」などのように読み方を修正しながら読む生徒などいるように、素人目線から考えても、優れた読者の技を実践しているなぁという印象はある。
でも、それは本当に自分が授業者として授業していることによって引き起こされたものなのだろうか。ただの偶然、たまたま生徒が頑張っただけでは、6クラス授業を回しているのでどこかのクラスだけできないままで終わる…とか、できない生徒はおいてけぼりだとか……考えるだけでも気分のよいものではない。
全員を結びつけるために必ず全員のノートを見ているけど、そのノートだって全然提出してこないしね、そもそも。
生徒に委ねることと丸投げすることの違いが生徒には伝わらないだろうし、自分でも何がどこまで……。
もう少し悩まないとね……。むしろ、生徒にこういう本を読ませたほうがいいのかも?
いずれにしてももう少し自分が頑張らないとね。