ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

学校の役割、教科の役割

Fire

少しバズったツイートがある。

週刊東洋経済 2018年4月14日号 [雑誌](連鎖する貧困)

週刊東洋経済 2018年4月14日号 [雑誌](連鎖する貧困)

 

思いのほかバズりましたねぇ……。

何のための?

しかし、それに対して

と、まさにこの指摘は重要なところでしょう。教科教育に集中しているとどうしても「教科の時数の捕り合い合戦」になりやすい。

近視眼的というか、それだけ教科の思い入れが強いというか…*1

とはいえ、やはり我々の仕事は教科を教えて自己満足することではない*2ので、「自分の教科はこれだけ重要だ!!」なんて騒いでも、あまり意味はない。今回はたまたま数学でしたけど、国語科としてはしょっちゅう「漢文なんていらない」とか「古典はいらない」とか「文学やる意味はない」とかそういう話になる。そういう時に、国語の教員が熱っぽく古典の意義を感傷的に説いたところで、それを見るそのほかの人たちは興ざめしていく。それと同じである。

一体、学校は何のためにあるのか。単純な問いだけど、恐ろしいことに学校の中ですら統一見解を明確に示せているケースは少ない。

活躍する組織人の探究: 大学から企業へのトランジション

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高校・大学から仕事へのトランジション―変容する能力・アイデンティティと教育

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やっと、こういう形の話が現場レベルでも意識の高い人たちには伝わるようになってきたけど、まだまだ教員が本気でリアリティを感じていないよなぁ。

学級目標や学年目標を作っている時期だと思いますが、よく教員は「社会で役に立つ」だとか「社会で通用する」だとかそういうことを言ってしまうけど、教員にいう「社会」なんてそもそもフィクションもいいところなわけで、結局、管理しやすい、教員のいうことをよく聞く子供になれという言葉の言い換えでしかないからねぇ…トランジションなんて意識の社会との接続なんてないない。

そんなんだから簡単に「見捨てる」と公然と言える教員がいるわけですし。

www.s-locarno.com

教科に限らず、何のために学校があり、授業があるのかということについては考えなければならないことである。

これも根は同じようなことで…

こんな記事も折よく見つけた。

president.jp

まあ、しょせんはビジネス誌の要約版みたいなものなので、本気で噛みついても仕方ない。詳しくはこれを読むしかないかね。

日本の15歳はなぜ学力が高いのか?:5つの教育大国に学ぶ成功の秘密

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まだ読んでない(読む予定もない)ので詳しい人はコメントください。

まあ、この記事の内容については、例えば

日本の子どもたちにこうした自信が身につきづらいのは、日本特有の「集団主義」のネガティブな面だと言えます。

なんてことがあるけど、これも例えば『日本人は集団主義的』という通説は誤り | 東京大学みたいな記事もある通り、どうもステレオタイプで見ているだけなんじゃないかという感じもする*3し、

学習成果は班の努力として評価され、個々の生徒のあいだの能力の違いはあまり問題にされません。褒められるときも、個人ではなく班が褒められます。

こうなってくると「ほんまかいな…」と疑わしい上に、提案として

たとえば、高校受験の評価手段として、試験の点数だけではなく、プレゼンテーションの能力も加味してはどうでしょうか。学んだことを先生や友人に向けて発表する時間を中学校の授業のなかで設け、その能力に成績をつける。そうすれば生徒も先生も真剣に取り組むでしょうし、その中で生徒には自信がついていくことでしょう。その際には、お互いを笑ったりするのではなく、尊重しあうことが大切です。

なんてくると、日本の高校入試事情(内申点などの縛りがキツイことや受験制度や人員配置的に手間をかける選抜がほぼ不可能なことなど)をよく分かっていないんじゃないかと強く感じる(本を読む予定はないというのはこういうことが原因)。

ただ、この文章で重要だと感じるのは最後の一文である。

子どもたちが良い人間、幸せな人間になるために、教育が必要です。失敗や挫折にどう向き合い、やる気をどのように保つのか。こうしたことを教えるのは、子どもたちがさまざまな問題を抱える昨今、決して簡単ではありません。それでもなお、教育は私たちの社会においてもっとも重要な営みです。

まさに、この一文が日本の教員や学校に足りていない視点であることは間違いない。たかだか教科の時間数、何を教えるかということではなく、「良い人間、幸せな人間」という抽象的で具体性の見えないような「絵空事」に見えることに対しても、明確で説得力のある青写真を描き出し、示せるような教育観が必要*4になる。そのための、不断の問い直しを力強く行わなければいけない。

社会を意識するほど…

社会へのつながりを考えるほど、授業の構成や授業でやることは地味になる。だって、社会にワークシートなんてないわけで、そっけないノートにそっけない文章から読み取ったことを自分で構造化しなければいけないわけです。

でもね…そうやって素っ気ないことをやっていると、授業として見栄えしないし、子どもたちもこちらが手を抜いているようにしか見えません(笑)。

自分が満足するような工夫を凝らした授業から卒業したいところですね。

*1:某前川氏は「国語を増やせ」というけど、巻き込み事故になるので簡単に言わんでくれよと思う…。まあ、それはともかくとしても、数学を減らして国語を増やしたところで簡単に論理的思考力は育てられないし、数学の代わりもできない。能力は簡単に転移しません。

*2:という当たり前の前提が共有できるか怪しいのだけど…

*3:「拙著に記した通り…」とあるので、もしかすると本の方で何か書いてあるのかもしれませんが。自分も何の本か論文で「日本人はそれほど集団主義ではない」という話を読んだのか失念……。

*4:その意味ではこの文の直前の「教育はその後の人生に備えるための羅針盤です。過去に何があり、自分たちがどこから来たのかを知るためには、歴史を学ぶ必要があります。数学や科学の知識は、生活の中で活用することができます。語学を学ぶのは、他者と適切にコミュニケーションを取るためです。」ってのはどうなのよ…

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