教員になるのは大して難しいことではない。
でもしか教員という言葉があるくらいなので、教員免許さえあれば、人手不足であるので、まあ、教壇には立てます。
それで一人前面して良いわけないのですが、つい偉くなったつもりで子どもに対して傲慢になりがちである。
教壇で何を引き受けているのか
教員免許を得て、晴れて先生として教壇に立ち、子どもたちに授業をするとき、我々、教員は何を課せられているのかを考えてみれば、色々と理屈をこねくり回すことはできるが、究極的に突き詰めて言えば、子どもの人生に対する責任を負わざるを得ない。
教員は教室において子どもに対しては絶大な影響力を持っている。それは自覚していようとしていまいが、教員が教員というだけで持たざるを得ないものである。
これはなかなか厄介な影響力であり、どれほど生徒に寄り添うということや生徒目線でと言ったところで、決して対等になりえない「一線」であるし、教員側の意図を超えて生徒にダメージを与えることの方が多い。本当に最新の注意を払っていないと痛い目に遭う。
そのような影響力を理解した上で、慎重に、自重して振る舞うのであればまだしも、その影響力を子どもを押さえつけるための道具に使う教員がいるのも事実だ。
そのことについては明確に教育ではないと主張しておく。
子どもは教員を選ぶこともできなければ、学校から逃げ出すことも現実的には非常に難しいというか、現実的ではない。レールから外れた子どもたちがどうなるかというデータは様々にあるが決して望ましいものではない。
そんな閉鎖された空間の中で、教員が自分の影響力を子どもに対する鞭として振るうようなことをすれば、子どもにとっては地獄である。ただでさえ、教員に目の敵にされるような要因を持つ生徒は、普段から何かしらのしんどさを抱えている可能性が高いのに、それに追い打ちをかけるような真似を教員がすることは許しがたいのである。
一体、何を見ているのか
本当は「愛せない場合は通り過ぎよ」でよいのだと思うのだが、それでも口にしておかねばならないほどに、教員が影響力を暴力的に生徒へと振りかざすことに対しては否定であることを主張しておかねば気が済まない。一方で、「通り過ぎよう」と自重しているせいか歯切れも悪い。
たぶん、この手の価値観の差はどんな論文やデータを示して理論武装しても徒労にしかならないのを日常生活で身に染みているのと、まあ、嫌なことに自分が関わりたくないということもあって、「通り過ぎよう」と愚痴っぽく書いている結果になっている。
もう、生産性もないので中途半端ながらも打ち切りますが……。
ただ、これだけは言っておかなければいけない。
己の絶大な影響力を生徒に暴力的に振るう教員は、生徒の一体、何を見ているのでしょうか。
子どもを冷静に見られなくなったら、それは教室の中に子どもを押しこめることに四苦八苦するだけではないだろうか。
それはもはや教育とは呼べないだろう。