教育実習を終えた、卒業生と話すなどする休日。勤労に感謝するにはよい日である。
そして、授業や教育や学校のことについて話すのは楽しいものである。
やってみて試される
教育実習に行って帰ってくると、多くの大学生は色々と打ちのめされて帰ってくる。色々と感じるものは多い体験になるので、教員になるにせよならないにせよ、学校のことを知り、少しでも学校に良い意味で関わってくれればよいなぁと思うのである。
本気で教員を目指している学生にとっては、この教育実習は山場である。自分の「なりたい」だけでは許されないで、本当に生身の子どもがそこにいるのである。その生々しい子どもたちと向き合うと、自分の「なりたい」だけではやっていけないということに直視することになるのである。
不思議なもので、あまり教員になる気がないけど、免許だけは……なんて学生の方が、よい授業をしたりする。まあ、よさにも色々ありますが。
思い通りにならない歯がゆさとどう向き合っていくのかということが、残りの大学生活の勉強なのでしょう。
適性なのか訓練なのか
授業を率なくこなせるようになるための土台として、個人的に一番大切だと思うのが、子どもの姿をちゃんと見れるようになることだと思うのである。それぞれの校種、教科に応じた視点で、子どもを見取ることが出来るようになることが大切なのだ。例えば、
のようなツールは、子どもを見取るためのツールであるし、その結果、面白いように授業の動的な姿が見えるというものである。
難しいのが、その「子どもを見る」ということが、果たして適性なのか、訓練なのかということである。
自分としては、自分自身が教員に向いていないという自覚があるから、適性だと言われると辛い。自分も教員になって色々な授業をやってみて、そして色々な生徒の成果物をみていくうちに、やっと日常の子どもの姿を見ていくことと自分の授業で何をやっているかということが繋がってきたのである。
しかし、国公立大学の教員養成課程のAOや公募推薦の試験内容や小論文や面接でのやり取りの内容を見ると、高校生の段階で「子どもを見る」ということに意識があるかどうかがしっかりと試されるような問題になっているなぁ……と感じるのである。
高校生が無警戒に教員養成課程の志望理由書を書くと(教育系に限った話ではないけど)、自分のやりたいことばかり並べてしまい、自分の行為の影響を受ける相手のことが意識の埒外になってしまう生徒が多い。
でも、そんななかではっきりと子どもたちのことから問題意識を持って、物が見られる生徒がいるのである。そういう生徒の問題意識やまなざしを見てしまうと、「適性」という言葉を思わないではいられないのである。自分にはなかったことである、きっとこの生徒は自分よりもよい先生になり、よい授業が出来るのだろうという…嫉妬か、これは(笑)。
実習にいってスタートライン
教育実習にいって帰ってくると、自分が学校や教育のどこに興味関心を抱いているのかということがはっきりする。
だから、実習から帰ってきた教え子と話せるのは、いよいよ同業者として授業や学校について話すということだから、一人仲間が増えたようでとても嬉しく、楽しいことである。
まあ…教え子の方が、まだ自分のことを「同僚」だなんて思えないで、こちらが話すことを授業のように受け取ってしまうが……それは本意ではないのだが、そのうち、プロになればさらに変わっていくのだろう。
教え子が教員になったり、実習生で教えた学生が教員になったり、自分の仲間が増えていくという嬉しさがある。
なかなか厳しい仕事である。果たしてこんな厳しく、リスクも抱え込む仕事に、教え子を巻き込んでいいのかという気持ちがあるのだが……。
さて、自分も自分の今の仕事に併せて、もう一度勉強していきます。
学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する
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そろそろ自分の「後進」まで考えて。