ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

期待と失望の繰り返し

Hope

最近はイライラしていることが多い気がする。

それは自分の思い通りにならないことに対する不満である。だから、非常に身勝手なものだと分かっている。しかし、その身勝手さにも自己弁護したいという思いもあり、なかなかバランスが難しいものです。

期待したいから期待する

そもそも何にイライラしているのかといえば、生徒たちの様子に、である。

自分が見ている生徒たちの様子が、自分が期待したようなレベルに達していないことや自分の思い通りになっていないことにイライラしているのである。考えてみれば、当然、そんな事情は生徒にとってはどうでもよいわけで、あくまで自分の身勝手な期待と身勝手な苛立ちなのである。

分かっているのだけど、イライラするのです。

自分が勝手に期待するのが悪く、勝手に期待したことを裏切られたからと言って、それに対して不満を述べるのは筋違いもいいところである。

しかし、不満を抱く自分の言い訳を書くならば、「期待したいから期待したい」のである。君たちならできるだろう、できるくらいのことを今までやってきただろう、ここまでたどり着いてほしいんだ…そんな思いである。

うーん…しかし、こんな思いも結局は、「自分が」こうしてやってきたから、こういうところまでたどり着くだろうという、自分のやってきたことに対する自信過剰が元々の原因であるし、全く子どもに無関係の苛立ちなのである。

生徒に任せるのであれば、期待通りにならないことに対して不満を勝手に抱いてはいけないはずなんだが……指導云々のレベルではなく、感情論として。

感情を無視して機械的に処理することはもちろんできる。

しかし、そうやって機械的に行う授業は、まさに「処理」であって、それでいいのかなぁと思う。

教員の立場とは

理性的に、客観的に授業と、子どもと、向き合おうとする気持ちがある一方で、自分が授業の参加者であり、当事者の一人であるという感覚も捨てられないのである。

果たして、授業における教員とは何者なのだろう。

自分でなければできない授業ってあるのだろうか。同じ指導案、同じ展開で、全く異なる授業ができるということはある意味で当たり前のように感じられるけれども、一方で、そんなに偶然に任せてしまっていいのだろうかという思いもある。

まあ、TOSSだとか教育技術だとかそういう話ではなくて、授業に教員がいること、教員が持っている空気、キャラクターというものが一体、どんな影響を子どもたちに及ぼしているのだろうか。

そして、それを自覚することはほとんどなく生活しているし、むしろ、そのようなものが影響するとは思っていない気もするし……。さて、一体、授業で何が起こっているのでしょう。

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