やっぱり苦戦を続ける丸山眞男。
一番根本的なところを自分が見落としていたようにも思うが、丸山の語る言葉にどれだけ生徒にとってリアリティのある言葉なのかということの吟味が足りなかったように思えてきた。
そもそも、その丸山の言葉のリアリティを感じるのは自分たちの問題意識だろうと思っていたのだけど、その考え方が間違えだったかもしれない。丸投げはしなかったけど、もっとちゃんと彼らのとっての切実さということを考えるべきだったと思ってきている。
具体例も見つかるし語る言葉もあった
「である」ことと「する」ことの本文の確認をそこそこに終了させたということもあり、いよいよ具体的な事例について生徒達自身に検証してもらおうと思って、色々な題材を投げ始めた。
正直、本文の読解や理解の仕方が上滑りであったので、非常に低調になることを怖れていたのだけれども、予想外にかなり色々なことを考えて、きちんと言葉にして議論しようとしてくれた。
もっと具体例を探すこと自体に苦労したり、そもそも何が問題かを説明できるような言葉を持てないだろうと思って心配していたので、彼らの口から自分たちの社会の中の問題や身近な事例を引いて論じていたのは安心である。
特に市民革命について歴史の授業を踏まえて考え直したり、日本の政治も実は地方と中央では異なる位相を持っていることに気づいたりと、なかなか面白い話が出てきていた。
しかし、そのような面白い言葉が出てくるのだけど、生徒達の様子をみると、決して納得して充実して話せているわけではない。
むしろ、話せば話すほど、意気消沈としていき、段々と、推進力を失うのである。
無力であることの実感
どうやら政治についての話をしていると、自分たちの「無力感」というものを痛切に感じているようである。
たとえば、国政のような大きな話でなくても、生徒会活動について。いくら、生徒会活動として議論したところで、結局、教員が干渉して何も生徒の思い通りにさせていないという現実を知っており、オママゴトの生徒会選挙や活動に付き合っているだけという思いが強い。
選挙についても、自分たちには選挙権がないので興味も無ければ、現代社会や評論の授業で「シルバーデモクラシー」という言葉で、自分たちの票が決して何よりも優先されるわけではないということを思い知らされている。
だから、議論が進めば進むほど、現実から遠ざかるきれい事に陥って、自分自身がここで今、無力な者同士が議論することに意味を感じなくなるのである。
民主主義はやや逆説的な表現になりますが、非政治的な市民の政治的関心によって、また「政界」以外の領域からの政治的発言と行動によって初めて支えられると言っても過言ではないのです。
生徒にとってこの丸山の主張する「逆説」にリアリティを感じることは難しいのである。自分たちがまさに「非政治的」な人間である痛切な自覚と、その自覚の上に迫られる「発言・行動」のむなしさにこそ、彼らの実感がある。
この無力さに対する実感について、きちんと自分が初めに考えていなかったのがそもそもの見立ての誤りだったのかもしれない。
実感を取り戻せるだろうか
しかし、それでも、「当事者」であることを放棄することはできない。
どうすれば、彼らの実感につなげていくことができるだろうか。
それこそが、丸山が提唱するもう一つの逆説
深く内に蓄えられたものへの確信に支えられてこそ、文化の(文化人のではない!)立場からする政治への発言と行動
とつながるのだろう。
何を見つけてくれるのか、この先が苦しく、楽しみである。