日々、残業している教員のみなさん、こんばんは。生きてますか。
学校と業務量ということについては、なかなか割り切れないものがありますが、それでも仕事量の異常さに教員が限界だという声を上げるようになっています。
教育改革が迫られる中、学校という「職場」が限界を迎えつつあります。そんな限界を迎えつつある学校と教員はどうしていけばよいのでしょう?
そのような観点で西川純先生が新しく本をお書きになりました。
教員になりたくない
本書の「はじめに」の内容が、まさに今の教育現場が直面しつつある危うさを端的に示している。
一昨年度、5人の3年生が私の教えるゼミを希望しました。その中の2人が教員以外の進路を3年生の段階で選択しました。(中略)そして、昨年度は、5人の3年生が私のゼミを希望しました。今度はその中の3人、つまり半数以上が教員以外の進路を3年生の段階で選択しました。(中略)教員を志望しない学生に理由を聞くと、第一に挙げる理由は「教師の
仕事がブラック勤務だから」という点なのです。(PP.3-4)
教員に若者がなりたがらないのである。つまり、学校を一歩下がって外側から眺めると、普通の損得勘定で考えるのであれば「働きたくない」のである。
様々な書籍で、そのブラックぶりは指摘されているので、ここでは繰り返さない。
教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)
- 作者: 内田良
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2015/06/17
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週刊東洋経済 2017年9/16号 [雑誌](学校が壊れる 学校は完全なブラック職場だ)
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
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ただでさえ、大量採用世代の大量退職に伴って、人手が足りなくなっている中、こうして新しく採用される人間がいなくなってしまっていることには大きな危機感を覚える。
もちろん、学校にいる側から見ても、例えば、人手不足と言いながら、採用試験に落とした人を「講師」として登録し、その上で「教諭」と「講師」で同じ仕事をしているのに、待遇面で屈辱的ともいうべき扱いをしているなど、不可解に見えることも少なからずあるのだが*1。
わざわざ使いつぶされるために学校に就職しようとは思わないだろう。せめて、使いつぶされるにしても、自分が理想を抱いた「教育」に殉じるならばともかく、専門でもなんでもない部活動に押しつぶされるという話が後を絶たないのだから、教育以外の道を選ぼうという若者の判断は懸命だと思う。
教育を生業としてのたうち回ってでもそれなりに楽しくやっている人間としては残念なのですが、それでも気軽にこっちにおいでと言えるような環境ではない。
なぜ学校の働き方改革なのか
本書で紹介されている教育現場のブラックさやその原因である「給特法」や部活動についての内容は、最近いろいろなところで目にするようになった内容なので、この問題について興味がある人にはお馴染のないようである。
ただ、本書の面白い視点であるのが「なぜ学校の働き方改革が必要なのか」という議論である。
本書の主張は明確である。「日本の生き残りのため」(P.17)であるという。
まあ、ウーマノミクス的な話と教育現場の環境整備がイコールであるかのように見える本書の展開はちょっと無理があるように感じますが、「日本の労働の在り方」の根治治療として、学校の教員の働き方改革という視点は面白いと思います。
教員の多忙感は、確実に教員から余裕を奪うわけです。余裕がない教員が取る指導方法は「規律」でガチガチに固めてゼロトレランスで排除していくのがもっとも効率的だと選ばれかねない。そんな地獄絵図は自分は見たくはない。
どのように働き方を改善するか
では、どのように働き方を改善するか。
本書の方向性は二つだ。一つは、すでに行われている先行的な実践を分析し、それに倣って学校全体を少しずつ動かしていくことである。もうひとつは、個人が「したたかに」多忙に対して対抗していくことということである。
詳しい内容は本書をみていただくことにして、ここでは感想を述べる。
本書で提唱している「学校改革」は本来は「私立学校」の方が先行して動けるはずなのである。だから、公立が遅々としてなかなか進めることが難しいとしても、私立学校が先に大きく変わることによって、公立にもよい影響を与えることができるのではないかということである。
ただし、私立と公立では縛られている法律が異なる*2ので、一概には比較できないだろけど、ブラックじゃない環境でよい人材と余裕のある学校経営で結果を出す学校が出てきたらインパクトは大きいだろうなぁとは思う。
私立学校に勤務している人間なので、まあ、自分の環境が変わってくれという愚痴です、はい。
もう一つの「個人」の方の改善ですが、納得できる点と納得できない点がある。
仕事の誠実さに関わることなので腑に落ちないというのが大きいのですが、現実問題としては一理はあるけど……まあ、自分はやらないな。
『学び合い』について書いてありますが、それについてはスルーします。さすがにそんなにうまくはいかないでしょうと思う。しかし、どんな方法であれ「したたかに」やれという言葉は正しいと思いますし、「いらんことはやらない」と今ある仕事を削り落としていくということの意味はよく分かります。
自分の教員としての使命は
つまるところ、自分の教員の使命は何かということを考えて働くしかないのである。
しかし、その「使命感」が間違ったものになってはいけないと、最後に釘を刺して本書は終わります。
世の中には「もし、自分の子どもと教え子が同時に交通事故に遭ったら、私は教え子を優先する」と胸を張って語る教師がいます。それは「おお間違い」です。(P.155)
この言葉をどう考えますか。
さて、自分は教員としてどう生きるのでしょう。
たぶん、教科を考えていたいんだろうなあ。狭くて、救いがたく、タコツボ化して。
それで立ち行かなくて教科からはみ出して際限がなくなっていくのかと思う。どこへ行くのだろう。