本日は衆議院総選挙。投票箱の一番乗りを目指して早起きしました。
6時半に行ったのに、一番乗りを逃す…
— ロカルノ (@s_locarno) 2021年10月30日
おかしくないか!?
選挙に行く
今回の選挙は前回よりも投票率が高くなるようだ……とはいえ、相変わらず低水準であると感じる数値である。
各方面で投票の重要性が語られ、学校でもかなり意識的に主権者教育の話題は触れられるようになっていると感じるのだが、それでも投票率が上がっていかない。この政治に対するしらけた空気は、立場が強いものは強いままに、立場が弱いものは弱いものに固定する危険性をはらむ風潮であるので、本当は最も警戒したいものである。
学校現場にいて、政治の話をするのはかなり神経を使わないとならないし、現代文という科目を教えていると、どうしても既存の権力に対しては厳しいことを言いがちになるので、言い方を間違えると特定政党への批判になるような可能性もある。
高校生に対して「選挙に行くように」ということを何度も繰り返し伝えれば、「とりあえず行ってみよう」と思う生徒は多いだろうとは思う。しかし、それが長続きするのかは果たして不明である(特に大学に進学したら「選挙に行こう」と行ってくれる大人は途端に少なくなる。本当に自分で必要生を感じていなければ、大学生になったら選挙に行かなくなるのは目に見えている)。
選挙が民主主義の根幹であるし、民主主義とは参加することで守られるということは、高校の各教科の色々な場面で出てくる話であるが、それが結局、実感として実を結ばない難しさを感じざる得ない。
権利を行使しないことによって、その権利が奪われてしまう可能性があるという話は、高校の現代文の定番教材の一つ丸山眞男「「である」ことと「する」こと」でもしっかりと書かれているのだが……。
いくら、上手に授業の課題が読めるようになっても、自分たちの継続的な課題として粘り強く取り組み続けるだけの態度を持つことは難しい。
高校という社会と接続する部面を受け持つ立場として、どこまで授業で社会に参加するということを実感させるべきなのかということにはいつも迷いがある。伝え方も難しければ、あまり押しつけがましくなっても思想信条に踏み込むようで難しい。
とはいえ、高校を卒業することで社会に出ることになる生徒たちのことを思うと、教科書を読めることだけに自分の仕事を限定してしまうのも、無責任にも思うのだ。
自分たちに権利があること、権利の行使が出来ること、権利を行使して権利を守ること……そういう理屈と実感が授業でもなければいけないのではないかと思う。生徒をがんじがらめにする学校という制度が、もしかしたら致命的に民主主義について考えるときに相性が悪いのかもしれないが、それでも、授業で出来ることはある。
授業の「対話」一つとっても、自分が発言することをめぐって、その権利があるという自覚や意見として尊重されるという経験や発言するという責任を実感としてつかんでいくから、授業で何かが育つのではないか……そういうことをちゃんと責任を持ちたいのだ。
大きくは変わらない明日
今回の選挙も、速報を見ている限り、大きく明日から生活が変わることはないだろう。
そういう安定に安心を覚えることもあるだろうし、固定化された現実に絶望することもあるだろう。
そういう現実を教室からどう眺めていけば、次の民主主義の担い手として、生徒を育てることが出来るのだろうか。