先週、授業見学をしていただきました。
遠路はるばるお越しいただいたのですが、非常に刺激を受けました。
その方から先日、ご見学いただいた授業についてのレポートをいただきました。
せっかくなので、ブログに少しだけ転載します。自分がどんな授業をしているのかという授業の雰囲気が伝われば。
転載の方針
どうしても生徒の情報に関わることや身元があからさまになるようなものは省略します。
その結果、授業内容についてもかなりぼかします。
結果的には、何がなんやら訳が分からない可能性もありますが、それは引用した自分の責任というか、改稿のせいです。
まあ、雰囲気をお楽しみください。
以下、レポートの一部転載
【見学の意図】
・質問作りを重視している授業者(「書いてあることを分かった気になるのではなく、分かろうと問うことを続けなければいけないのだろう」「何かを問うということのエネルギーをきちんと体現してもらいたい」(2018.06.06のブログより))が、どのような授業を展開するのか、どのような雰囲気の中、生徒がどのように反応し、動いているのか以前から興味があった。
・ノート指導を含めた形成的な評価の様子を見たかった。
〈教室の配置〉
席は自由。活動に応じて自由に移動。
〈授業の流れ〉
①前時の振り返り
②2種類のプリントをバラバラに配布。読んで問に解答させる。(15~20分程)
設問は共通。
③同じ内容のプリントで意見交流。好きなタイミング、好きなところで。(10分程)
④全体を混ぜて意見交流。お互いのプリントを見せ合ってから交流スタート。
⑤まとめ、本時の目的の開示
「逆説的な民主主義のあり方を体現する」
⑥課題の提示 自分の考えを、次回までにノートに書くこと。
〈生徒の様子〉
教員の短い指示で、個の活動と班活動を行き来する姿は、日ごろからごく当たり前に行われている、体に染みついた習慣のように感じられた。個で行うこと(読む、書く)と他者と意見交流することの切り替えが本当に自然で、特に、読むことに没入している姿が印象的であった。自由な発言が保障されている雰囲気の中、生徒は自分の視点、他者の視点を楽しんでいる様子が見られた。
授業後の生徒に感想を聞くと、「多様な視点で物事を見る練習ができる」と話していた。
ノートは、構造図や思考ツールを駆使する子もいれば、文章で書き綴る子など様々。各々好きに書くが、文字でびっしり書いている生徒が多い印象を受けた。意見交流では、他者の意見をメモすることも忘れない。交流の時間が終われば、自席でノートをまとめ直していた。
生徒が本当に主体的。書きたいから書く、交流したいからするという生徒の自らの意思で動いている授業であった。
〈感想〉
自由な発言が保障された雰囲気の中、話題が脱線したり、特定の生徒の独壇場になったりしないのは、授業者の声掛けのタイミングや課題設定にあると感じた。単元の目標に照らし合わせながら、生徒にとって切実な問題か、話し合うに値する問題か(意見交流したくなる課題か)という点で課題設定が行われていたため、全員がそれぞれの当事者意識をもって取り組めていたのだと思う。
また、本時の目的である「逆説的な民主主義のあり方を体現する」は、当事者意識を持つこと、情報を鵜呑みにしないこと、という授業者のメッセージが強く表れていた。
授業者が生徒に「君たちが社会の問題を話し合って世の中に何か影響がある?」と尋ね、生徒がないと答えたとき、「じゃあ意味ないの?」とすかさず重ねて質問した場面。生徒はここで、今日のこの50分間を真剣に振り返ることになったと思う。
授業者としてのコメント
他にも2クラス別の授業を見てもらっていますが、色々な事情で転載が心理的に憚られるので1クラス分だけ転載しています。
上のレポートは、一番、できるクラスをみていただいているので、肯定的なコメントがもらえています。少し、見栄を張りたかった(笑)。
「書いてあることを分かった気になるのではなく、分かろうと問うことを続けなければいけないのだろう」「何かを問うということのエネルギーをきちんと体現してもらいたい」ということに注目されてのご見学だったと思いますが、ちゃんと自分がそれを体現できていたのかは自分では分かりかねます。周りでご覧になっている方の判断に委ねます。
さて、個別の部分について、思うことを。
教員の短い指示で、個の活動と班活動を行き来する姿は、日ごろからごく当たり前に行われている、体に染みついた習慣のように感じられた。
ここは、まさに先日、ブログでも書いた「アクティブラーニングの身体性」の観点ですね。
アクティブラーニング型授業の基本形と生徒の身体性 (学びと成長の講話シリーズ)
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自分でも思うけど、生徒がスムーズに動いてくれるという関係性は、授業を自由にするには大切なことだなぁと思う。授業の冒頭のミニレッスンやら実際のモデルの提示やらをきちんと聞かせないと、何も指導しないで丸投げになってしまうので。
そして、話を聞くという身体のあり方は、教員対生徒のみならず、生徒同士の話し合いでも顕著にでる。積み重ねだよなぁ……。
ノートは、構造図や思考ツールを駆使する子もいれば、文章で書き綴る子など様々。
ここを自由にさせてあげられるようになったのは、ここ数か月です。できる子にとっては不要な制約を続けてしまったなぁと思うものの、全員がある程度好きな形で書けるようになってくれているので、よかったのかなぁ、迷うなぁ……。
話題が脱線したり、特定の生徒の独壇場になったりしないのは、授業者の声掛けのタイミングや課題設定にあると感じた。
ここが自分にとっての一番の悩みですね。結局「介入」(intervension)をどのようにするのが授業としてよいのか、許されるのか、自分ではっきりとした決断ができないのです。
気持ちとしてはいなくてもいいかなと思うが、何もしないでいるのは一番、効果的に伝わるときに見過ごすことのようにも思うわけで、難しいものです。
以前にこんな言葉を紹介した。
子どもたちにとって実行し、振り返り、もう一度トライし、間違え、そうしたことから学ぶ、ということに時間を使うことは、よい時間の使い方です。もしリテラチャー・サークルを上手に営もうとするなら、あなた自身にもあなたの子どもたちにも、時間という贈り物をすることです。(本を読んで語り合うリテラチャー・サークル実践入門P.50)
リテラチャーサークルを実践したい - ならずものになろう
リテラチャーサークルに限らず、やはり時間という贈り物を大切にしたい気持ちは強い。
正直、最後の質問は、生徒は少し食いついたが、不自然で蛇足なような気がする。結論ありきで、聞かなくてもよいことだったかもしれない。
授業をふりかえることは楽しい
こうして、客観的に見てもらい、振り返ることができるのは、自分の記録を振り返るのとはまた違って面白いですね。
本当、ありがたい機会でした。また、ぜひお越しください。
色々な人に教室を見てもらいたいなぁと改めて思いました。しかし、辛いことにここから半年は受験のことしかやれないだろうし、たぶん、見学受入の許可ももらえないような気がします。
つらいなぁ……。