久々に国語教育関係の書評を書きますが、あまり面白い話にはならなそう。
どちらかと言えば、批判めいた苦言で終わるんじゃないかと思う。
この「高等学校国語科実践報告集」シリーズは、あまり数の多くない高校の国語の実践集なので、比較的、期待して発売を待っていたのだが……。
アクティブ・ラーニングなのか言語活動の充実なのか
第一に問題としておきたいのが、この本で紹介されているものは「言語活動の充実」のための実践として報告されたと思われるものであるということだ。
実質的に「言語活動の充実」と「アクティブ・ラーニング」の方法論的な差異はないと考えてよいと思われる。
ただ、上の記事でも自分の考えとして書いたけど、やはり「言語活動の充実」として、つまり現行の指導要領をベースに考えられていることと、次期学習指導要領のアクティブ・ラーニングをベースに考える実践とでは、「社会」という点についての力の置き方が大きく違うと思っている。溝上慎一先生のいうところの「トランジション」という観点がどれだけ意味を持っているかという点での差異は小さくないだろう。
そのため、その観点から本書の実践を眺めてみると、一つ一つの実践の工夫はされているものの、「教科の課題」を解決するための実践であって「社会に生きてはたらく能力」という観点は弱いように感じる。
もちろん、近年の実践が中心に紹介されているので、実践者は「社会」との関係性は意識的に書かれている。
しかし、その一方でその「社会」に対する意識が「結果としてそうなればいい」というように見え、「学習の過程からも、結果においても、社会とのつながりを意識する」という点は弱いように感じる。
こういう言い方をするのは自分自身のやっていることを否定するようで心苦しいのだけど、やっぱり国語ムラの中で問題になっていることを解決することに終始していて、非常に局所的な議論であるように見える。
たとえば、本書には「漢詩を作る」という実践や「古典を科学的に読む」という実践が紹介されているが、やっていることや発想は面白いが「アクティブ・ラーニング」という看板を掲げるのであれば、それは妙な話になる。
少なくとも指導の概要や報告の内容からは「トランジション」を問題とするような意識は読み取れないし、どのような学びがあり、どのようにそれが外化され、どのように評価されるのかというプロセスも見えてこない。
そのため、「言語活動の充実」という文脈での報告集であるのであれば非常に豊かで面白い本だと思うが、わざわざこの時期にアクティブ・ラーニングという看板を掲げて出版するには、内容についての検討が甘いのではないかと言わざるを得ない。
章のタイトルと紹介されている実践がおかしくないですか
本書は「審議のまとめ」に基づいているのか、アクティブ・ラーニングを「深い学び」「対話的な学び」「主体的な学び」から成るものだと捉えており、本書の章立てもこれらの三つに分けている。
しかし、それぞれの章とその章で紹介されている実践の関連性があるようには感じられない。
たとえば、主体的な学びとして「プリント学習」を利用した実践を紹介しているけど、教室で生徒たちが自分たちでプリントを作業していることを主体的として考えているのであれば、主体的という言葉を矮小化しすぎだろう。 たとえば、資料3-2 次期学習指導要領に向けたこれまでの審議のまとめ(素案)(各教科等関連部分)において
「主体的な学び」の実現に向けて,子供自身が目的や必要性を意識して取り組める学習となるよう,学習の見通しを立てたり振り返ったりする学習場面を計画的に設けること,子供たちの学ぶ意欲が高まるよう,実社会や実生活との関わりを重視した学習課題として,子供たちに身近な話題や現代の社会問題を取り上げたり自己の在り方生き方に関わる話題を設定したりすることなどが考えられる。特に,学習を振り返る際,子供自身が自分の学びや変容を見取り自分の学びを自覚することができ,説明したり評価したりすることができるようになることが重要である。(P.7 下線強調は引用者による)
と「主体的な学び」について説明されているのだが、上の引用部に下線強調したような内容は、実践報告にはほとんど見て取れない。見て取れないことはないとしても、意識的にそのような学習活動を計画したり指導していたりはしていない。
全ての章について、こんな調子で検討していくと大きく粗が目立つため、「アクティブ・ラーニング」を看板に掲げて、なおかつ意識的に章立てもアクティブ・ラーニングに寄せている本なのに、実践の中身が章立てやアクティブ・ラーニングの意図とかみ合っていないってどうなのよ?と思うのです。
まあ、「深い学び」と「対話的な学び」と「主体的な学び」が要素に分解して、実践をそれぞれの要素に基づいて分類できるのかということ自体が怪しいのだから、この本のようにちぐはぐな形になるのは仕方ないとは思う。
実践の内容は素晴らしい、だけど…
注意してもらいたいのは、自分はこの本で紹介されている実践の内容がひどいということは一切言っていない。むしろ、意欲的な取り組みであるし、報告に当たって相当な時間をかけて準備してきた実践であり、自分が授業を作るときにも参考にしたいことや真似してみたいことが大いにあった。
でも、この本を「アクティブ・ラーニングの実践報告」の本として扱うのは羊頭狗肉ともいうような気持ち悪さを感じる。
販売戦略として仕方ないのだろうけど……それでも、実践の内容は優れていることやアクティブ・ラーニングがただの学習方法に矮小化される傾向にあることに問題があることは何度も言われていることを考えると、ちょっとこれはどうかと思うのです。
アクティブ・ラーニングをただの「言語活動の充実」の延長線上の、ただの教授法の問題とだけ捉えるのであれば、これでも問題はないのかもしれない。
でも、「資質・能力を育成する学習過程」などを問題にしていく学習論としてアクティブ・ラーニングを捉えるのであれば、この本のようにアクティブ・ラーニングを論じることは的外れな感じが否めない。
実践の内容は面白い。だから、実践だけを見るのであれば、周りにぜひおススメしたい。でも、アクティブ・ラーニングの実践だと思われてしまうのは困る。非常に厄介なことをしてくれたよ…明治書院…。
余談
余談ではありますが、本書はどこかの実践発表会で発表されたものを書籍化されているため、発表会で行われた質疑応答や講師の指導助言なども掲載されている。
その質疑応答を見ると、国語教員が国語科の中で汲々としているんだなぁ……という何とも言えない気持ち悪さを感じた。一歩、国語科の外に出たら「そんなことはどーでもいいから、ちゃんと読み書きと活用させろよ」と言われそうなことを質疑応答している様子がなんとも……。
何なんだろうか、この正体のわからない気持ち悪さは。上手く説明できないのだけど、とにかく、自分にとって「どーでもいい」と思うことが繰り返されている。
これは自分の勉強不足なのか、国語教員としての適性のなさなのか。全く分からない。
本当、ただ、ただ、座りが悪くて気持ちが悪い。何なんでしょう、これ。
その他つぶやいた感想
作文のルーブリックの言葉が面談指導の代わりになるというのは、やや問題があるんじゃないかなぁ……。ルーブリックで示せるのは形であって発想や組み立ての良さを指摘できる面談の代わりにはならないだろうなぁ。面談の指導が形で終始するならルーブリックの代わりにもなろうけど。
— ロカルノ (@s_locarno) 2016年11月3日
国語におけるジグソー法でエキスパート課題を決めるときに、生徒に決めさせると見通しが立たなくなるので、教員が決めた方がいいという話はわからんでもないけど、子どもの中から出てきた意識でないと最後にジグソー活動しても、表面的には意見はでるけど、生徒の納得感はないんだよねぇ
— ロカルノ (@s_locarno) 2016年11月3日