参考文献を調べる余裕もないので、のちの課題としてメモ書き。
昨日、『高等学校国語科 授業実践報告集 アクティブ・ラーニング編』 を紹介したけど、その中にちょっと気になる話が合った。
それが「他教科に活きる国語科の言語活動」という話なんだけど、要するに「国語はすべての教科の基礎だから、国語力がないと困ると言われた」ということと「国語が上がったらほかの教科も良くなった」ということが書かれていた(大ざっぱなまとめ)。
この手の話は色々な人が好き勝手にいってくれるんだけど、本当にそうなのかなぁ…と疑わしいと思っているという話。
能力は簡単に転移しない
「国語の力がすべての教科の基礎」って議論は色々な人から言われる。
それは「問題文を読み取るのに国語の力が必要だ」だとか「思考力は言葉の力で決まる」だとか無責任なことを言われて「いやぁ…あいつは基礎は分かっているけど国語力ないから問題文の意図がわかってないから成績伸びないんだよ」なんて好き勝手言われ、気づいたら国語科が他教科の成績不振まで押しつけられているなんてことありますよね(私怨)そのくせ、「国語は勉強の仕方が分からない」だとか「成績悪ければ文系に行け」だとか「国語はセンスだ」だとか暴言の数々…ありますよね(私怨)。
しかし、このような言い方については次の本を紹介して、以前、問題があることを述べている。
要するに、教科で身につけた能力は転移しないという話である。
つまり、その教科内で一生懸命練習した能力や技術は、それだけでは他の事柄にすぐさま応用できるようなものではないということだ。もし、その能力を他の事柄にも使いたいというのであれば、他の事柄の文脈において練習しないと使えるようにならない。
だから「国語力があればできるようになる」だとか「国語力がないからできない」だとかいうのはナンセンス極まりない。
もし、数学や理科などで「問題文を読むだけの読解力がない」というのであれば、その教科の中や教科の文脈で「どのように読むべきか」ということを指導するべきなのだ。
そもそも、言語活動の充実は国語科が中核を担うことにはなっているけど、すべての教科で言語活動の充実が求められている意味を考えるべきだろう。
国語科は思考力や論理力を担う科目か
主語がでかい話は良くないので早々に切り上げるけど…。
国語科の目標は単純に「思考力」だとか「論理力」で割り切れる範囲のことだけを問題にしているのかという話。
単純にそうだというのであれば、まあ、「問題文を読めないから成績が悪い」という言い方は正しいのかもね。
まあ……論じるだけの手を持たないのでこれ以上はやめておきます。
授業の国語は模試の偏差値で効果を測定できるか
これも……天に唾す話だからやめておこう…。
でもねぇ…この手の実践報告で、「進学校」であるという背景は分かるのだけど、「偏差値」の話を出してくるのも何だかなぁ……と思う。
かと思えば、他の章ではルーブリックの話を書いていたりと、どうも整合性が…。
国語科も悪乗りしている?
この「国語はすべての教科の基礎」って話に、国語科も便乗している節はあるように思う。調べるのが面倒だから調べていないけど、たぶん、国語教育関係の雑誌を適当にパラパラと見ると「国語はすべての思考の基礎だ」という話は何度か出てくるだろう。
そうやって「国語をやる意味」を論じようとする気持ちは分からないでもないけど、「他の教科の役に立つための国語」と「国語教育そのものの目標」が重なっているのかどうかを無自覚に「国語は他の教科の基礎」といって、国語の担っている役割を矮小化するのもなぁ……と思う。
国語教育はもっと広いし余裕があるんじゃないかなぁ
この辺りは完全に感覚的な話だけど、国語教育で「創作」や「古典」をやるのは、決してほかの教科に役立てようという意図からではないだろう。
表現力と言われたらその通りかもしれないけど、数学の証明のために詩を指導しているのではないよ、我々。