非常に頭にきている。
ただ、その怒りは個人的なバイアスがかかっていると言われても仕方ないので、冷静に客観的に考えても問題がある点について列挙し、簡単にコメントをつける。
前提として、このアクティブ・ラーニングや教育改革をめぐる議論は、多くの人がキャスティングボードを握ろうとして百家争鳴に好き勝手言っている状況なので*1、あまり細かいことを議論しても宗教戦争みたいなことになるので生産性はない。
だから、決定的に問題であろうということを批判しておく*2。
アクティブ・ラーニングとは何かという説明をめぐって
本書の第一章は「『新しい学力』とは何か」というタイトルで過去の答申やPISAに関する議論から始まっている。
このあたりの議論については、ほとんど答申などの引用なので大きく変なことはない。時々「うん?」と思うような表現がないわけではないが、10000歩譲って気にしないことにすれば、普通のことが書いてある。
ただ、それがこれまでの学力を「伝統的な学力」と呼び、アクティブ・ラーニングと対比して論じ出した時のアクティブ・ラーニングの説明が早速おかしい。
伝統的な学力が「学習内容」としての知識を身につけるものであるのに対して、アクティブ・ラーニングはあくまで学びの「方法」であることを再確認しておきたい。(P.24 強調下線は引用者)
この表現はかなり雑だ。というか、素直に読むのであれば誤りであると言ったほうがいい。下線を引いたように「アクティブ・ラーニング」を「方法」として捉えるのはかなり大きな問題がある。
このことについては、以前、NHKニュースが不用意な紹介の仕方をしていたのを批判して論じたことがある。
この記事でも書いたが、「次期学習指導要領改訂に向けたこれまでの審議のまとめ(素案)」では「アクティブ・ラーニング」は以下のように説明されている。
子供たちの「主体的・対話的で深い学び」をいかに実現するかという、学習・指導改善のための視点(P.37 下線強調は引用者)
さらに
形式的に対話型を取り入れた授業や特定の指導の型を目指した技術の改善に留とどまるものではなく、子供たちの質の高い深い学びを引き出すことを意図するものであり、さらに、それを通してどのような資質・能力を育むかという観点から、学習の在り方そのものの問い直しを目指すものである(PP.16-17 下線強調は引用者)
これらの文言の下線を引いたところを見てもらえれば分かるが、アクティブ・ラーニングは「方法」としては論じられていない。
アクティブラーニングから「教授パラダイムから学習パラダイムへの転換を促す学習論」*3という視点を落としてはならない。そうでなければ、議論が手法レベルに矮小化され、現在の延長線の授業を拡大再生産すればいいという結果になりかねないからだ。
もちろん、上の引用部分は「」がついている「方法」であるので、このような観点が含まれているのだと言われる可能性はある*4。しかし、結局、この観点が間違っているのであとの指導法の提案も的外れになっているのだとしか思えない。
学習の質は脳内ではダメ
反アクティブ・ラーニングをいう人によくあるコメントに「頭の中がアクティブなら活動がなくてもアクティブ・ラーニングだ」というものがある。
これは文科省の答申で「アクティブ・ラーニング」の観点として「主体的・対話的で深い学び」が挙げられていることを満たせないし、学術的なアクティブラーニングの説明からしても条件を満たせない*5。
本書もその御多分に漏れず、次のようにアクティブ・ラーニングを批判するという「失敗」をしている。
アクティブ・ラーニングというのは、なによりも学ぶ側の意識が活性化しているということを本来指すのであって …(P.57)
「意識の活性化」という表現がかなり曖昧であることが問題である。外から見てわからないことだからこそ、
一見積極的でアクティブにみえる学習形態それ自体が、学習の質を保障するものではない。真にアクティブであるためには、行為そのものよりも意識の活性化が重要だからである。 (P.58)
といった表現となり、
すでに日本流のアクティブラーニングを戦後七十年間実践してきている…(中略)…教師たちは発問を工夫し、クラス全体が深く考えられるように授業を活性化させる。班活動を基本とし、様々な授業で話し合いが活用され…(中略)…このような対話的で協働的なアクティブ・ラーニングが指向され、実践されてきた。(P.70)
となってしまう。
これらの表現の何が問題か。
一番の問題は『公教育をイチから考えよう』の中で苫野一徳先生が指摘したように「一斉アクティブラーニング」という奇妙なものを肯定してしまっている点である。主体的な学びであるはずなのに、教員の主導で教員の思いのままに子どもを操作しようという発想がかなりズレている。
第二に、目に見えないものを評価の対象にすることで、どのような授業でも「これが一番だ」という言い方ができてしまう。こうなってしまうと授業の検討というよりはレトリックの争いにしかならないので不毛となる。
第三に今までの授業を不用意に肯定する述べ方はかなり問題がある。上で書いた通り、今回の教育改革は「パラダイム」の変化である。これまでの実践は、たとえば国語であれば大村はまの単元学習などは「アクティブ・ラーニング」の視点を含むと言える部分もあるが、今、現在進行形で全国の教室で行われている授業の全てが大村はまほどに先進的で徹底的に作り上げられた授業ではない。ただ、漫然と「教え込み」をしている授業が不用意に肯定されて看過できるほど、変化するまでに猶予はなかろう。
もちろん、「学びの質」は常に問い直され続けなければならない。それが審議のまとめの中にある「深い学び」という観点であるのだから。
だが、その「学びの質」の問い直しは決して「昔はよかった」「日本の教育は昔から優れていた」なんていう懐古趣味な日本の教育の過剰評価からは生まれない。
また、本書に繰り返しでてくる「教師のセンス」という言葉や「教師の憧れや情熱」という言葉は、学者が教育方法を論じるにしては感情的で情緒的で悪趣味に過ぎるというものではないか。
そのような精神論を振りかざして「新しい学力」を批判したり「新しい学力」の授業を提案したりするのは、あまりに空疎であり、不誠実ではないか。
昔との比較でアクティブ・ラーニングを批判するが…
この本のもう一つの特徴は「昔の日本の教育」をやたらと取り上げて美化していることだ。
吉田松陰とか明治維新のころのこととかを挙げるのだが、そもそも戦後の教育と戦前は素朴な観点では比べられないだろ…ということは脇に置くとしても、それらの過去の教育の成功を強調してアクティブ・ラーニングを批判するのは筋が悪い。
というのも、アクティブ・ラーニングが論じられるようになった背景には、ICT技術の発達やグローバリゼーションの進展などの大規模な社会構造の変化がある*6。
つまり、過去の教育の「成功」はそのような教育で「成功」しうるだけの条件が社会にそろっていたということである。しかし、そのような社会の諸条件を踏まえないで、つまり現在直面しているはずの社会の変化という文脈を無視して、成功体験だけを針小棒大に喧騒し、質的な転換を検討しないのはあまりにお粗末であろう。
全体を通して
用語が不安定になったりちょっとした表現が不正確だったりすることは目をつぶろう。それは新書だから仕方ない。
だが、上記のような観点は決して簡単に見過ごすことはできない。アクティブ・ラーニングをめぐる議論をいたずらに混乱させるし、「何もしないこと」の免罪符を「教育学者」様が与えるようなものだからだ。真面目に「アクティブ・ラーニング」をめぐる議論を追って、実践を積み重ねている人々を後ろから撃ち殺すような真似である。
また、非常に文章をうまく書いているために、やはり普通の関心のレベルでは上のような内容は素通りされるし、この本で主張されるような似非アクティブ・ラーニングに多くの人が騙されて引っかかる。
どう考えても雑なのだ。例えば、ご自身が専門だという国語の授業についての提案も次のようなレベルの話だ。
例えば国語の時間ならば、(中略)芥川龍之介の『羅生門』を題材にするなら、下人があのような行動をとったのにはどのおうな背景が考えられるか、老婆と相対した下人の心境はどのように変化したのか、あるいは、その後下人はどうなったのかといった問いを立て、思考を進化させていく。これは新しい学力的な読解力と言える。(P.86-67)
冗長になるし時間の無駄なので論って文句をいうのはやめるが、この程度のことしか言えないのに国語の専門家面されるのも不愉快であるし、教育学者の看板は返上してもらいたいものだ。
また、自分が過去に排出してきた頓珍漢な主張を、引用資料の解説の間に紛れ込ませて、あたかも時流にあっているかのような方法であるとミスリードするやりかたも、同じPISAの結果でも片方のページでは成績が下がったと言い、もう一方では成績が優秀だったというような書き方も非常にいい加減な印象は否めない。
結論として、この一冊を通して見えてくるものは斎藤孝という教育学者が、教育学者を名乗るにはよほど勉強不足なのか、あらゆることをわかっているのに自分自身を売り込むために都合の良いことを適当に弄しているのかのどちらかであろうということ。
すなわち、徹頭徹尾不誠実で貫かれている一冊である。
どうか、この本を元に「新しい学力」を、現場の教師は理解した気になってほしくない。
参考記事
上の記事の内容を書きたくなるような背景は、過去のこのブログの以下の記事をご覧ください。
また、参考書籍としては以下で紹介をしています。
なお、無料ですぐに専門家の意見が見たいということであれば、アクティブラーニング研究の第一人者である溝上先生の以下のサイトの記事を隅から隅までご覧ください。
教育学者を名乗るのに、溝上先生の議論を全く触れないのはどうかと思うのだよ…
*1:「好き勝手言っている」とは言うけど、実際、うるさいところは勉強不足の思い込みが再生産されていると感じる。ちゃんと地に足がついている人はもう少し「先」に議論が言っているような感触はある。
*2:なお、この本には12月の答申は反映されていないので、この記事も8月の審議のまとめまでで書く。
*3:たとえば、溝上慎一 (2014). 「学校から仕事へのトランジションとは」溝上慎一・松下佳代 (編)『高校・大学から仕事へのトランジション―変容する能力・アイデンティティと教育』ナカニシヤ出版 pp.1-39.
*4:ただし、P.94では「アクティブ・ラーニングといった手法に気を取られ…」という表現があることから考えると、ここの「」に含みはなく、著者はアクティブ・ラーニングを手法にしか理解していない可能性は高いと思う。
*5:参照:溝上慎一(講話)外化なしの学習は思考力育成を放棄しているに等しい-外化としてのアクティブラーニングの意義
*6:これも厳密に言えば正しくなく、「トランジション」の問題だと溝上慎一先生は説明している。詳しくは(講話)施策の「社会が変わった」という説明を教育現場は繋げて理解していない