ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

国語教育における正しいデートの断り方

Heart

ネタです。

国語教育の文法教育関係の学部時代の演習の授業のレジュメを見つけたので…。

国語教育のうち、文法教育や日本語学に興味がある方がネタとしてご覧ください

あくまでネタなので細かいことはすっ飛ばしているのはご勘弁ください(笑)

長いので結論を知りたい方は上のもくじの「まとめ」からご覧ください。

語用論の基礎事項の確認

プロローグ

(1)花子 「あすの晩、映画に行かない?」

(2)太郎 「あさって試験なんだ」

(3)太郎 「きょう、学校で飼っているウサギが逃げちゃったんだ」

上記の(1)と(2)の会話は、日常の会話においては珍しいものではなく、ごく当たり前に行われるやりとりである。しかしながら、花子の問うたことは「映画に行くか行かないか」ということであり、太郎が「あさって試験がある」ということを尋ねたのではない。太郎の発言のポイントは、自分自身の予定を伝えたいということではなく「あさって試験なので、あしたの晩は勉強しなければならないから映画に行くのは無理」ということであるということである。すなわち、上のやりとりで重要なことは、「試験があると勉強しなければならないために、映画にはいけない」という暗黙の想定があり、それに基づいて花子は太郎の発言の「含み」を解釈したということである。

暗黙の想定、ないしは共通知識がないと、「含み」がわかりにくいこともある。例えば、(1)の問いに対して(3)のように返した場合はどうであろうか。

テキストにおいて、心之介が「花子さん、凍っちゃいますよ」と評価するように、暗黙の想定や共通知識が太郎と花子の間に見出せない場合、上記の会話は非常に不自然なものとなる。しかしながら、「もし太郎がウサギの飼育係で、逃げたウサギの世話をしていたということを花子さんが知っている」という文脈が想定される、すなわち太郎と花子の間に何らかの共通知識があるのであれば、太郎が花子の誘いを断ったということが十分に理解される会話となる。

このように、言葉には「含み」やあるいは「裏の意味」や「言外の意味」と呼ばれるものがある。このような意味*1は、明言されていないにも関わらず、日常のコミュニケーションにおいては、我々は問題なくそのような意味を解釈することができる。このような言葉の「言外の意味」について、どのような仕組みで成り立っているのかについて研究する分野のことを「語用論」と呼ぶ。

今回は、言外の意味についての出発点となったグライスの語用論からスペルベルとウィルソンの提唱する関連性理論までの大まかな語用論研究について俯瞰した後に、国語教育への語用論の応用について検討してみたい。

また「丁寧さ」に関する内容も、語用論の一分野であるためブラウンとレビンソンの「ポライトネス理論」についても、末尾で紹介を行い、国語教育にどのような観点があるか提案したいと考えている。

語用論研究の概容

グライスの「協調の原則」と「会話の公理」

言外の意味について、研究の可能性を示したのがハーバード大学のグライス(Grice)である。彼が1967年の「論理と会話」(”Logic and Conversation”)と題する公演の中で「言外の意味」を「会話的推意」(Conversational implicature)として提示した*2*3

グライスは、会話的推意を生み出す基盤として、次の原則を立てている(グライス1989: 26-27)。(なお、(5)~(9)の訳は、澤田(2001)による)

(5) 協調の原則(Co-operative Princeple)

Make your contribution such as is required, at the stage at which it occurs, by the accepted purpose or direction of the talk exchange in which you are engaged.

(会話の段階で、あなたが行っているやりとりの共通の目的・方向という点から、要請されるだけの貢献をせよ)

 

ここで用いられている’contiribution’とは、「発話」のことを指している。「協調の原則」とは、人間の会話を支配している暗黙の一般原則であり、人間は無意識にこの原則を守っているため、日常のやりとりがバラバラになってしまい、意味を成さないというような状況にならないで済むのであるという。

さらにグライスは、以下のように「協調の原則」を「量」、「質」、「関係」、「様態」という四つの下位の公理(maxim)に分割した。(哲学においては「公理」は「格率」と呼ばれる)

 

(6) 量の公理(Maxim of Quantity)

(i) Make your contribution as infomative as is required for current purposes of the exchange.

(あなたの貢献を、当のやりとりのその場の目的のために必要なだけの情報を与えるようなものにせよ。)

(ii) Do not make your contribution more informative than is required.

(あなたの貢献を、余分な情報を与えるようなものにするな。)

 

(7) 質の公理(Maxim of Quality)

Try to make your contribution one that is true, specifically

(あなたの貢献を真であるものにすべく努めよ、とりわけ)

(i) do not say what you believe to be false. (偽りであると思っていることを言うな)

(ii) do not say that for which you lack adequate evidence.(十分な根拠のないことを言うな)

 

(8) 関係の公理(Maxim of Relation)

Make your contribution relevant.(あなたの貢献を関連のあるものにせよ。)

 

 

(9) 様態の公理(Maximam of Manner)

Be prespicuous(明快な言い方をせよ)

(i) avoid obscurity.(不明瞭な言い方を避けよ)

(ii) avoid ambiguity.(あいまいな言い方を避けよ)

(iii)be brief.(簡潔に述べよ)

(iv)be orderly.(順序だった言い方をせよ) 


これらの公理は、日常の会話が必ずこれらを守って成り立っているということを意味しているのではない。むしろ、(1)(2)の例からわかるように、日常の会話はこれらの公理を逸脱しているケースが少なくない。言い換えれば、公理をわざと破り、逆用(exploit)することによって会話的推意を生み出そうとしていると言える。

グライスによれば、そのように会話的推意が導き出されるのは、表層的には公理を破っているように見えても、深層では原則および公理を守っていると仮定するからこそ、可能な多くの解釈の中から、この仮定と合致する解釈だけを聞き手は選択できるという。

★量の公理の例

(10) 「恋は罪悪ですか」と私わたくしがその時突然聞いた。

「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。

「なぜですか」

なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」

(夏目漱石「こころ」)(下線筆者)

 

「私」と「先生」の会話であるが、「私」の問いに対して「先生」が「私」に与えている情報は「なぜだか今に解ります。」だけであり、内容はほとんどない。すなわち、「先生」は、通常必要とされるだけの情報を与えておらず、量の公理を破っている。しかし、この場合、「先生」は「量の公理」をわざと破り、それを逆用することで「詳しく言いたくない」という(特定化された)会話的推意を伝えている。

これらの量の公理を破る例としてはほかに同語反復(tautology)や「無言」などが挙げられる。


★質の公理の例

(11)時には赤い竜の眼をして、じっとこんなにオツベルを見おろすようになってきた。

(宮沢賢治「オツベルと象」)(下線筆者)


(12)己の珠に非あらざることを惧おそれるが故ゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

(中島敦「山月記」)(下線筆者) 


これらの例は質の公理に違反した例であり、いわゆるメタファー(metaphor)の例である。質の公理の逆用としては、このようなメタファーや次のような皮肉(irony)が典型である。

(13)私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はたしかにそれを記憶しているはずであった。

何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね

(夏目漱石「こころ」)(下線筆者) 


「父」は「先生」が「何もしていない」ことを知っているのにも関わらず「私」に対して「何かやっていそうなものだがね」と言っており、状況から言えば、明らかに思ってもいないことを言っている。したがって、話し手はあえて「質の公理」を破ることによって、「何もしていない先生」のことを諷しているのである。

★関係の公理の例

(14)花子 「あすの晩、映画に行かない?」

(15)太郎 「あさって試験なんだ」 


(14)(15)は、(1)(2)の再掲である。このやりとりについて再度検討してみると、花子が質問しているのは、「映画にいくかどうか」である。それに対して太郎は「あさって試験なんだ」と答えている。もし太郎の答えが「関係の公理」に従っていると想定するならば、それは、「映画には行かない」という答えをいっていることになる。ただし、重要なことは、このようなやりとりが成り立つのは、花子も太郎も「試験の前日には映画には行かない」という前提があるということである。

 

(16)太郎 「きょう、学校で飼っているウサギが逃げちゃったんだ」


この場合の太郎の返答が突飛なものに感じられるのは、「関係の公理」に太郎の返答が従っているとすれば、どのような前提があるのかについて理解しにくいからである。
一方、関係の公理を逆用するような例も当然考えられる。

 

(17)[太郎が花子に話しかけているが、花子は読書をしたい]

太郎:何してるの?

花子:読書。

太郎:何読んでるの?

花子:六法全書。

太郎:邪魔してごめん。

 

このやりとりにおいて、花子は「六法全書」と答えている。もしかすると花子は本当のことを述べたのかもしれないが、太郎にとっては「六法全書」を読書することは、あまりに非現実的である。そんなものを読書として読んでいる者などいない。そこで、太郎は花子がわざと無関係なことをいう(関係の公理を逆用する)ことによって、「話しかけないで」という会話的推意を伝達しようとしたと理解したと考えられる。


★様態の公理

次の例は、ある音楽批評家がX嬢が「ホーム・スイート・ホーム」を歌うのを聞いた後で、感想を述べたものであるとする。

(18)Miss X produced a series of sounds corresponding closely to the score of “Home Sweet Home.”

(X嬢は、「ホーム・スイート・ホーム」の楽譜によく似た音を出していた)

(グライス 1989:37)(訳者筆者) 

 

グライスが述べているように、X嬢の歌を聴いた批評家が、単に「X上が「ホーム・スイート・ホーム」を歌った」と言わないで、わざわざ上述のような言い方をしたとすれば、「様態の公理」の「簡潔に言え」に違反している。つまり、批評家は様態の公理を逆用することで、遠回しに「X嬢の歌がひどい」と言いたかったのである。

スペルベルとウィルソンの関連性理論

以上のようにグライスの「協調の原則」と「会話の公理」は、会話の推論モデルとしてかなりの成果をあげたものの、グライスのモデルは「語用論が人間の認知能力に対する心的モデルであるという視点が欠如している」(西山 2009)ため、人間はいかにして情報を伝達することができ、また情報を解釈することができるのかということに答えられないという根本的な問題がある。

また、語用論的推論は(10)~(18)で見てきたような推意を検討することだけではない。例えば、以下の下線部の解釈のように、発話で明示的に伝達される内容(「表意」〔explicature〕*4)の把握でも、語用論的推論は行われている。

 

(19)ここに水があります。それに塩を加えてください。つぎに、それに砂糖も加えてください。

 

この文において、下線部を引いた二回目の「それ」が「水に塩を加えたもの」を指すということを理解するためには、テクストの情報に照らし合わせて解釈するという語用論的推論が行われなければならない。また、その解釈の結果は、言外の意味としてほのめかされるものではなく、発話で明示的に言われている内容である。

グライスの語用論では、このような語用論的推論については看過していたといえる。

このような問題点を抱えているため、現在ではグライス理論については、さまざまな形で修正が図られている。そうした理論のうちの一つとして、今回取り上げる、スペルベルとウィルソン(以下S&W)の「関連性理論」(Relevance Theory)と呼ばれる新しい語用論モデルは提唱されたのである。

関連性理論は、発話解釈にあたって、聞き手の頭の中でどのような認知活動が行われているかについての説明を試みる、認知的な研究に基づく理論である。S&Wは、人間の認知に関する活動を以下のように定式化している。

 

(20)認定的関連性の原理(Cognitive Principle of Relevance)

Human cognition tends to be geared to the maximisation of relevance.

(人間の認知は、関連性が最大になるように調整されている。)

(S&W 1992 : 260) 

 

人間の認知は、このような原則に基づくため、会話においても聞き手は自分にとって関連性のありそうな情報に注目し、そこから得られた情報を、関連性が最大になるように解釈すると考えるのが関連性理論である。

そもそも、発話すると言うことは相手の注意を促すことになるが、そのようなことから考えると、発話は聞き手に対して関連性があるという期待をさせることができると言える。これを定義すると以下のようになるという。

 

(21)伝達的関連性の原理(Communicative Principle of Relevance)

Every act of ostensive communication communicates a presumption of its own optimal relevance.

(すべての意図明示的伝達行為は、それ自体が最適の関連性をもつことの当然視を伝達する。)

(S&W 1992 : 260) 

 

この原理は、聞き手が発話に対してどのような意味を見つけるかについての説明である。注意すべきは、コミュニケーションにおいて効いてくる関連性は、「最小の関連性」でもなければ、「最大の関連性」でもなく、「最適の関連性」であるという点に注意が必要である。

「最適の関連性」は、以下のような前提に基づき成り立つとされ、この概念に沿って聞き手は発話の関連性を求めていくことになる。

 

(22)最適の関連性の当然視(Presumption of Optimal Relevance)

(a)The ostensive stimulus is relevant enough for it to be worth the addressee's effort to process it.

(その明示的刺激は、少なくとも聞き手がそれを処理する労力に見合う程度の関連性を有する。)

(b)The ostensive stimulus is the most relevant one compatible with the communicator's   abilities and preferences.

(その明示的刺激は、話し手の能力と選択の範囲内で最大の関連性を有する。)

(S&W 1992 : 270) 


聞き手は、発話は自分が処理する労力に見合う情報であると信じ、また、「話し手は、その能力と選択の範囲内で、もっとも関連性のある言葉を口にしたはずだ」と信じるということである。
このような前提に基づいて、実際の発話解釈は以下のような手順で行われているという。

(23)関連性理論による解釈の手順(Relevance-theoretic comprehension procedure)
a. Follow a path of least effort in computing cognitive effects:
(処理コストが最小になるような手順を辿りながら認知効果を見積もる)
Test interpretive hypotheses (disambiguations, reference resolutions,implicatures, etc.) in order of accessibility.
 (解釈のための仮説(あいまいさや指示対象や推意など)を接近可能な順序で吟味する)
  b. Stop when your expectations of relevance are satisfied.
 (予測された関連性のレベルまで達したら解釈を打ち切る)


以上の内容をまとめると、人間が何かしら発話をすると発話によって「最適の関連性の当然視」とが伝達される結果、聞き手は(23)のような手順でその発話を解釈することを行うということである。そして、聞き手がどのような解釈を選ぶかについては、少ない処理コストで最大の認知効果の得られるものが選ばれるという*5

ここでもう一度最初の例を関連性理論に基づいて見直してみる。

 

(24)花子「あすの晩、映画に行かない?」

(25)太郎「あさって試験なんだ」 


このように言われた場合、たいていの場合、花子は(26a,b)のコンテクスト的想定を補い、

(26c)のコンテクスト的含意を引き出すことによって解釈すると考えられる。

 

(26) a.太郎はあさって試験である。 <コンテクスト的想定>

b.太郎はあしたの晩は試験の勉強しなければならない。 <コンテクスト的想定>

c.太郎はあしたの晩は映画にはいけない。 <コンテクスト的含意>

 

しかしこれだけが可能な解釈ではない。例えば、太郎が試験勉強が不要なくらいの優等生であるというような状況では、(27)が話し手によって意図され、聞き手が理解する解釈になる可能性がある。

 

(27) a.太郎はあさって試験である。 <コンテクスト的想定>

b.太郎はあしたの晩はとくに用事はない。 <コンテクスト的想定>

c.太郎はあしたの晩は映画にいける。 <コンテクスト的含意> 


いかにして聞き手は、どちらの解釈が意図されたものであると判断するかというと、(23)で示した手順のように、(26)と(27)のうち、処理コストが最小となる手順をたどりながら、最初に得られた解釈を、その発話の意味として受け入れるのである。たとえば(26a,b)のようなコンテクスト的想定が比較的容易に得られる状況においては、(26c)のような解釈が最初に聞き手の関連性の期待を満たすことになり、聞き手が選ぶべき唯一の解釈となる。

なお、太郎が単に「いいえ」と言うだけで済ませなかったことについては、太郎が単に「いいえ」というだけでは達成できない何か別の認知効果を意図していたと考えなければならない。すなわち、最適の関連性の当然視(b)より、話し手は最大の関連性のある言い方をしたはずであると聞き手は解釈するのである。「あさって試験なんだ」と言うことで最大の関連性があると考えるのであれば、聞き手が「映画にいかない」ということを得るためにかかった処理コストは、「映画にいけない理由」の説明という認知効果が得られることで補われるのだというように考えることとなる。

語用論と「丁寧さ」

国語教育において、語用論的な観点が問題となる単元は、主に敬語が中心となる。そのため、語用論の観点から見た「丁寧さ」の研究について紹介を行う。

「丁寧さ」というと言い方の丁寧さや日本語の敬語などを連想するが、語用論(および社会言語学)では、「丁寧さ」という用語はもっと広い問題として論じられる。例えば、「明日の晩、映画行かない?」と誘われたときに

 

(28)行かない。

(29)ごめん、あさって試験なんだ。

(30)申し訳ございません、明日より試験がございますので… 


と答え方が変わると、表現から受ける「丁寧さ」の印象は異なる。このような文の丁寧さが異なりを単なる表現の問題と考えずに、その背後に何らかの原理が働いていると考え、その原理について考えていくことが、語用論の「丁寧さ」に関する研究の立場となる。

今回の本論とは離れるため、研究の名前の紹介だけとするが、このような立場からの研究としては、グライスの提唱した「協調の原則」を補完するものとしてリーチ(1983)が提案している丁寧さの原理(Politeness Principle)や、社会学者のゴフマンの論から得た「面目」(face)という概念を用いて「丁寧さ」について説明を行い、社会言語学の領域と語用論の問題を接続し、現在有力かつ説得力のあるモデルとされるブラウンとレビンソン(1987)の丁寧さのモデルなどが有名である。

ポライトネス理論を踏まえた語用論的な観点からの研究としては、宇佐美まゆみが唱えている「ディスコース・ポライトネス」(宇佐美(1995)など)がある。

国語教育と語用論

語用論の観点を取り入れた学習指導の可能性

これまで見てきたような語用論研究の観点は、どのように国語教育に活かされるだろうか。大まかに視座は二つあるように思われる。

第一に、語用論的な観点を読解指導や作文指導などに取り入れていくという発想である。すなわち、広義でのレトリックに関する指導に語用論を取り入れるという発想である。例えば、定番教材である魯迅の「故郷」には次のような場面がある。

(31)「あ、閏土さん、よく来てくれた」

(中略)

旦那様

と一つハッキリ言った。わたしはぞっとして身震いが出そうになった。なるほどわたしどもの間にはもはや悲しむべき隔てが出来たのかと思うと、わたしはもう話も出来ない。

(魯迅「故郷」)(下線筆者) 


この場面は、主人公が旧友の閏土と再開を果たすが、閏土の「旦那様」という一言で、主人公は、自分と閏土がもはや友人としていられないほどに下線部のように「隔てが出来た」と理解する場面である。

この場面において、主人公が閏土との間に「隔て」をはっきりと認識したのは、閏土の「旦那様」という一言である。それ以外に「隔て」についての解説はない。それにも関わらず、主人公が「隔て」を認識するという物語の展開に対して、一般に違和感を感じることはない。これは、閏土の「旦那様」という言葉に、呼称以上の言外の意味として、「身分の差」を閏土が意識しているということを語用論的な推論によって導けるからである。

このような一般に「行間を読む」・「表現を味わう」と言われる内容について、生徒に解釈させるときに語用論の観点を与えることで、より詳細な読みができる手助けになる可能性がある。

第二に、生徒自身の言葉遣いについて、語用論的な内省を行わせるという方法である。つまり、国語における文学や作文にとらわれず、「どうしてそのような効果が生まれるのか」という言葉の仕組みそのものについて考察を深めるような指導が考えられる。例えば、『敬語の指針』に次のような例があるが、このような例について、授業で議論などを行わせることで、自分がどのような意識を言葉にもち、どのような言葉遣いをしていきたいのかを考えさせることは意義があるように思われる。

 

(32)同僚から突然「これ、お願いします。」と書類を置いていかれた時、何だか失礼な頼み方だと感じた。 何が問題だったのだろう。

(『敬語の指針』: 48) 


これまでの国語教育は意図的な伝達については、どのように教えるか、さまざまな議論がされてきていると感じるが、上記のような言外の意味の伝達や偶発的な(もしくは意図していなかった)伝達については議論が手薄であるように感じる。そのため、このような語用論的な内省を行わせることに意義があるように感じられる。

どちらの立場も国語教育に示唆する点は多いと思われる。しかしながら、鳴島(2004)において母語話者の思考は、完全な文の形を取っておらず、話し言葉が文法的には不完全なものになりがちであり、書き言葉に習熟するには文法知識が必要であるという指摘があるように、生徒自身が言葉遣いについて内省できるようになることは、国語の能力の育成という観点からも望ましいと考えられる。このため、第二の立場についてより考察が深められるべきだと思われる。また、「学校文法の知識や理解度と、言語の文法的分析力や言語生活者としての運用力とが必ずしも連動するわけではない」(伊坂2007: 41)という学校文法の問題点とあわせて考えても、生徒自身が語用論的に内省する力は、「言語生活者としての運用力」の一つとして文法教育(ないしは国語教育)で今後、取り上げられなければならない観点であろう。

もちろん、そのような力がどのようなものであり、どのように役に立つのかという問いには答えなければならないだろう。しかしながら、安易に「読解」や「作文」に結びつくと言うのは早計であろうし、「読解」や「作文」というのは、語用論の問題においてもごく限られた場面でしかないことを考えると、「読解」や「作文」に捕らわれずに、より柔軟に言語を内省する力や態度を育てることを考えたい。

国語教育で語用論が問題となる例―敬語教育をめぐって―

前述のように、国語教育で語用論的な観点が問題となるのは、主に敬語指導における場面においてである。敬語のしくみについて詳細に見ていくと、たとえば飛田(1993)が「ことばの正しさ」の要件として「状況の認識と相手意識への即応が必要」と述べているように、直感的にも、敬語を正しく使うためには、場面における状況や文脈を把握する必要があると理解される。この状況や文脈把握に関する内容は、敬語研究では、菊池(1997)は敬語のきまりとして<語形>、<機能>、<適用>のように、観点の異なる複数の観点のきまり*6があると述べいるが、そのうちの<適用>についてのきまりに当てはまる。すなわち、「どのような場面でどのような言葉遣いをすべきか」という語用論的な観点の問題である。

しかしながら、国語教育における敬語の指導については、主に敬体と常態を使い分けさせるような<語形>や<機能>の指導に偏りがちであるといわざるを得ない。

吉岡(1986)の中高生は敬語について高い知識を持っているのにもかかわらず、「敬語をうまく使えない」という意識を持っているという指摘から考えると、敬語の使い分けにおいては、知識事項である<語形><機能>よりも、<適用>に関して習熟することが難しいと考えられる。<適用>の観点が難しい理由として、<適用>の規則には「身内に対する敬語の抑制」のような守らなければ明らかに不適となるような例がある一方で、ペンを先生に借りるときに「ペンを貸してください」というべきか「ペンをお貸しいただけませんか」という言うべきかの判断のように、状況によって勘案しなければならないような例があり、<適用>に関わるきまりに幅があるということが考えられる。それにも関わらず、国語教育では<適用>に関わる指導があまりなされていない。このような観点を取り入れた授業実践としては山田ほか(2004)がロールプレイングを取り入れ、生徒の教師に対する言葉遣いが、場面によって変えなければならないということを生徒に気づかせるような授業を行ったという例があるものの、今後さらに検討の余地があるように思われる。

まとめ

筆者の考える国語教育へ語用論を援用する方法は、2.1.で見てきたとおり、「読解や表現の指導に活かす」という考え方と「ことばの仕組みそのものを内省させる」という考え方の二つであり、特に後者の「ことばの仕組みを内省させる」ということが重要であると考えている。

また、そのような語用論的な指導の可能性として、現行の国語の指導時効の中で敬語は話題に富むのではないかと考えている。

さて、ここで表題の「正しいデートの断り方」について検討をしてみたい。

 

(33)太郎 「明日、一緒にお茶しない?」

(34)花子

a「明後日までにレポート書かないといけないの」

b「私にもお茶を飲む相手を選ぶ権利はあるわ」

c「申し訳ございませんが、明日は都合がつかないためお断りさせて下さいませんか」 

 

(34a)の言い方は穏当であろう。「デートに誘う」という割とリスクの高い行為をしている太郎に対して、その太郎の「面目」を潰さないような相手に「配慮」した言い方となっている。それに対して(34b)は、相当に相手の「面目」を潰した挑発的な言い方になっていよう。おそらくこのような言い方をするときには、よほど仲が良いのか、それともただ断るだけでなく「二度と誘うな」というような意味もほのめかされるだろう。

(35c)は花子と太郎の立場によって、ニュアンスはずいぶん異なるだろう。花子と太郎が普段はいわゆる「タメ口」で話すような仲であれば、(35c)のような言い方は、「本気で嫌だ」ということを敬語を使用して「疎」の関係を示すことで表したとと考えられる。

もちろん、花子が太郎に対して普段から敬語を話すような関係にあるのであれば、「断る」という相手の「面目」を潰す可能性の高い行為をするため、かなり敬度の高い言い方をして「配慮」していると考えられる*7

以上の分析を踏まえて「正しいデートの断り方」を提案するならば、「どのような言い方がどのような効果をもつか理解して、自分の意図を伝えるのに一番効果的な断り方を選ぶ」ということが国語教育の立場からの「模範解答」であろう。

なぜならば、このような言い方の違いが伝えるメッセージの違いを研究するのが語用論であるが、上のような細かい分析をせずとも、日常の会話では使い分けがされているため、なかなか国語の授業では意識されない点であるからだ。どのように言葉を使うとどのような意味を伝えるのかについて、子ども自身がきちんと理解(メタ認知)するということは、国語教育で意識させたいことであると考える。

そのため、国語教育の観点から「正しいデートの断り方」を考えるのであれば、「どのような言い方がどのような効果をもつか理解して、自分の意図を伝えるのに一番効果的な断り方を選ぶ」ということが、「正しいデートの断り方」といえるのではないだろうか。


参考文献

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文化審議会答申 (2007) 『敬語の指針』 文化庁

Grice, H. P. (1967) ”Logic and Conversation.” In P. Cole and J.Morgan(eds.)(1975) Syntax and Semantics 3. Speech Acts. 41-58. New York: Academic Press.

飛田 多喜雄(1993)「23 正しいことばと敬語」 『国語基本論文集成22国語化言語教育論(4)文法教育と指導研究』 東京:明治図書 PP.270-280 (飛田 多喜雄(1970)『児童心理』24(5) 東京:金子書房)

伊坂 淳一 (2007) 「文法指導の課題」 『月刊言語教育』 27 (9) pp.40-43

菊池 康人(1997)『敬語』 講談社学術文庫

Leech, G. N. (1983) Priceples of Pragmatics. London: Longman.(池上嘉彦・河上誓作訳(1987)『語用論』 東京:紀伊国屋書店)

鳴島 甫 (2004) 「口語文法教育のあり方」『月刊国語教育』 24 (7) pp.12-15

西山 佑司 (2009) 「発話解釈能力をさぐる」 大津由紀雄編 『はじめて学ぶ言語学 -ことばの世界をさぐる17章-』 京都:ミネルヴァ書房

澤田 治美(2001)「第3章 推意」 小泉 保編 『入門 語用論研究 -理論と応用-』 東京:研究社出版

Sperber, D. and D. Wilson. (1986/1992) Relevance: Communication and Cognition. Oxford: Blackwell. (内田聖二・中達俊明・宋南先・田中圭子訳(1993)[第二版(1999)]『関連性理論:伝達と認知』 東京:研究社出版)

Sperber, D. and D. Wilson. (2002) “Pragmatics Modularity and Mind-reading,” Mind and Language, 17. PP.3-23

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ディアドリ・ウィルソン,ティム・ウォートン(今井邦彦編、井門亮ほか訳)(2009) 『最新語用論入門12章』 東京:大修館書店

山田 敏弘ほか(2004)「敬語教育に関する一考察」『岐阜大学教育学部研究報告 教育実践研究』 6 PP.1-20

吉岡 泰夫 (1986)「高校生の敬語知識とその形成要因―済々高・人吉高・九女高における敬語行動調査から―」『計量言語学』 15(6) PP.221-245

 

注意書き

今回の記事は悪ふざけです。

学部四年生だったかのレジュメをコピペして適当に改稿したものです。

だから、もしかすると授業で使っているテキストの内容は断りなく引用している可能性があります。

意図して剽窃するつもりはありませんし、ネタなので許してね…。

*1:「意味」という言葉については、語用論研究においては不用意に使うことは避けなければならない。例えばリーチは動詞”mean”の使い方が二通りあることを指摘している。(1983:6)

(3) What dose X mean?

(4) What did you mean by X?

リーチによると、前者はXとWhatの二者の関係を扱う「意味論」の研究分野であり、後者はWhatとyouとmeanの三者の関係を扱う「語用論」の研究分野であるという。

*2:グライスは「会話的推意」を(i)「特定化された会話的推意」(particularized conversational implicature)と(ii)「一般化された会話的推意」(generalized conversational implicature)とに分けている。両者の区別の詳細については、本論から離れるため今回は論じない。なお、今回、問題としているのは「特定化された会話的推意」が中心である。

*3:語用論では「会話的推意」と「含意」(entailment)と「前提」(Presupposition)は、異なるものとしてそれぞれに定義が与えられている。今回の議論の中心となるのは「会話的推意」であり、「含意」「前提」との違いを簡単にあげるのであれば、「含意」「前提」が論理的に導きだされる内容であるのに対して、「会話的推意」とは、その場のコンテクストから生じる一時的、臨時的な内容である。

*4:「表意」のなかでも、ここであげるような推論的作業が必要とされるものとしてS&L(1992: 182)にあげられている例として、曖昧な語の意味を一つに絞ったり、指示語の範囲を同定(identify)したり、漠然とした語を「肉付け」(enrich)したりすることがあげられている。

*5:なお、S&W(1992 )では、コミュニケーションにおいて聞き手は話し手の以下のような高次の意図を理解して会話を解釈しているという前提に立っている。

しかじかの情報(P)を
聞き手が信じることを(1次のメタ表示)
話し手が意図していることを(2次のメタ表示)
聞き手が信じるに至ることを(3次のメタ表示)
話しては意図している(4次のメタ表示)

つまり、聞き手は、4次のメタ表示を心に描くことになると言う。この考え方が示唆することとしては、このような高次メタな状態について、個別言語の文法が未完成である幼児でも問題なく理解し、コミュニケーションできることが極めて特殊な能力であると言うことである。詳しくはS&L(2002: 11)を参照。

*6:菊池のいう<語形><機能><適応>とは、以下のような観点である。

<語形>…どの表現を使うのか(例:「言う」に対する「おっしゃる」・「言われる」など)
<機能>…どのような文法的な機能を持つか(例:尊敬語は主格を高めるなど)
<適用>…どのような場面や状況で使うのがふさわしいか(例:身内の敬語の抑制など)

*7:「面目」や「配慮」という言い方は、ブラウン&レヴィンソン(1987)に倣った言い方である。ただし、ポライトネス理論における「面目」などの語は、きちんと定義されている語であり、本文での使い方はその定義よりもやや拡張した用法になっていることを断っておく。

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