本日は振り替え休日。あまりエネルギーを使わないで過ごす。
読書のような、ただのグダグダのような過ごし方。
でも、ちょっと引っかかったことがあるのです。
いまさらに見えるかもしれないけど
昨日に引き続き、三浦和尚先生の本を読んでいます。
この本の第一章が「実践力としての教育話法」というようなテーマであり、授業者の話し方がどのように子どもに影響を与えるかということを扱っている。
この章で掲載されている論考は以下の通り。
- 子どものことばを育てる教師のことば(『松籟』7号 二七会 二〇一〇年一二月)
- 学習指導能力としての教師の話し方の自覚(『月刊国語教育研究』452号 日本国語教育学会 二〇〇九年一二月)
- 指導法としての話しことば―「応答」を中心に―(『月刊国語教育研究』526号 日本国語教育学会 二〇一六年二月)
- 豊かな教室コミュニケーションの成立(『月刊国語教育研究』365号 日本国語教育学会 二〇〇二年九月)
※()内は論考の初出。
どの論考も「授業者のことばに対する自覚が指導に大きな影響を与える」というテーマが貫かれており、授業者が子どもに対して「どう話すか」ということや「話すこと」でどのようなことが引き出せるのかということ、そして、どのような授業者として話すことの資質が問われるのかということを論じている。
授業者の言葉が子どもの学ぶことへの意欲を大きく変えることや、学ぶ過程において様々な気付きを与えることに繋がるということは、教員であれば国語科に限らず納得できることであろう。だからこそ、どのような「発問」がよい発問なのかということを議論してみたり、指導案に想定問答が書かれたりと、授業者の発言まで几帳面に指導計画に入れたり討論したりする。
とくに、教育実習生の話し方は、授業に慣れた教員とは違って、かなり手探りで初々しい側面があるため、教員が無意識に行っている技術が全く行われていないので、授業自体が上手くいかないこともある。だから、教育実習生の指導で授業での言葉遣いや発問の内容などは、色々な角度から色々な人がかなり手を入れてくる印象にある。
しかし、こういう「話し方」だとか「発問」だとかの技術をやたらと議論したがる研究授業や実習生への指導は、このアクティブ・ラーニングの全盛期において、何だか「授業者主導の授業のための研修」のように見えて「古臭い」側面があるように思えないだろうか。「あまり授業者の話し方を工夫することが行き過ぎると、授業者主導のような授業にしかならない」だとか「話術で生徒を誘導するのはけしからん」だとか、そんな感想が聞こえてきそうだ。
しかし、こういう発想は二重の意味で間違っている。第一にアクティブ・ラーニング型の授業だとしても、生徒にただ題材を丸投げすればよいというものではない。そこには教員の働きかけがあって、学び方の指導がされたり学びの意欲が喚起されたりするのである。第二にAL型の授業においては、様々な場面で対話が求められ、また、その対話をメタ認知していく必要性がある。つまり、言葉に対して自覚的であることが必要だ。生徒に言葉に対する自覚を求めるのにも関わらず、自己の言葉遣いに無自覚である教員は生徒にとってのメンターになりえない。
それぞれの論考が二〇〇〇年代以降であるけど、PISAショックからの読解力向上プログラム、言語活動の充実、そしてアクティブ・ラーニングという時代の流れの中で、何度も「授業者の言葉への自覚」が説かれてきたことの意味は大きいと感じる。
教員として、言葉に何を自覚する?
「授業者がことばに対して自覚する」ということはとても大切なことだ。どのような言葉遣いが生徒に効果的なのか、どうすれば安心の場として教室を成立させることができるのかなど、様々な面から必要性が感じられる。しかし、それが行き過ぎてしまい、例えば教育実習生の授業での言葉尻を捉えてネチネチとやるような指導だとかTOSSのようにどんな場面でも同じ指示をすればよいというようなのも、あまり個人的には感心しない。
だからといって言葉に対して無自覚であるのも気持ち悪いところだ。
まあ、こうやってブログを書き始めてはいるのだけど、当面、自分にこの問いに答えるだけの見識はない。思うところは多少あるけど、論理的に言語化できるほど根拠があるものではない。はっきりいってしまえば、どちらかといえば「言葉遣いだとかネチネチうるせぇ!」という本心がないわけでもない*1。
漠然とした授業技術として「授業者のことばづかい」と言っていても、難しいので、もう少し議論を絞って考えるなら、授業者の言葉遣いのうち、「子どもに安心を与える」という側面については大切にしたいところだ。
自分は基本的に育ちが悪いので、口を開けば罵詈雑言を吐く。世の中に呪詛を吐きながら生きている。
しかし、教室という学びの場については、自由に発言した欲しいとは思っている。教員が生徒の発言を挫くことで、学びの意欲を失わせるのはたやすい。なぜ、高校の教室で生徒が発言しないのか。その責の一端を「この程度もできないのか」という教員の態度が言葉遣いの節々に現れていることが担ってしまっていないか*2。
上手い言葉は分からないが、生徒の話をうまく聞き出せるような言葉遣いと態度は身に付けたいところだ。
*1:当方、研究テーマの一つは「敬語」である。
*2:このあたりは、ちょっと研究として掘り下げてみたい気もする。ポライトネス理論を援用して生徒が面子を脅かされることに対してどんなストラテジーを取るのかということを分析したら面白そう?学校の授業という場の教員と生徒の問答が漫画やドラマで定型化されるくらいに一定の型があることはポライトネスから考えれば、ある程度の型を守ることで不確定性を排除することができ、不要に面子を脅かされないで済むからであるし。浦滝真人(2005)「安心のシステムと信頼のシステム -敬語とポライトネスはどう違うか?-」『日本語学 9月臨時増刊号 敬語 理論と実践』 24-11 PP.36-44.での議論に近い何か。いや、雑なので半分冗談よ。