割と簡単に読める記事や本ばかりを眺めている時期がある。
忙しかったり気分が乗らなかったりするとそういう時期がやってくる。そしてある程度、読む量が増えてくると何をやっているのだか分からなくなってくる時期も来る。
自分との距離を感じ取りながら
教育実践の記録や学術論文やそれぞれの分野の基礎研究など、必要に応じてダラダラといつも何かをインプットしている気がする。
調子が良い時期にはジャンルの違いや畑の違いは感じないですらすらとものを読むことができるのだけど、調子の悪い時期は目が滑っていく。
流石に自分が時間をかけて大学院で過ごしてきたジャンルについては、疲れていてもある程度の集中力は続けられるのだけど、あまり訓練できていないものについては、目だけが滑って内容が頭に入ってこない。
実は自分はあまり国語科教育の授業の論文や実践記録を読むのが得意ではない。頭の中で授業をイメージできないし、教育的な効果の議論を追えないのである。議論を整理して解釈できない。
例えば最近であれば、
のような本であれば、疲れていても割とすっきりと読めるのに、教育論の方がやっぱり読めないのだ。
今日も読んでいたのだけど
全然、イメージが沸いてこないし議論の焦点をつかめない自分がいる。
一通りの知識はあるので話は分かる。でも、手触りを持って理解するということができない。完全に自分の外側にある話という感じがする。
できないことを責めたいのではない
自分にとって授業の話は苦手な話である。上手く伝えられないし、上手く消化できない。でも、生業としていることであるし、頑張らなければいけないことであるので、自分ではない他者の力を借りたいといつでも思っている。
逆に言えば、自分の持っている知識がどこまでなのかをきちんと改めるためにも、他の人と冷静に議論をしたいと思うのである。お気持ちを押し付けられて、自分の整理したいと思っていることを議論の俎上にも出せないことは非常に苦痛だ。
分からないことや納得いかないことを問うことは相手への攻撃ではない。シンプルに理解が出来ないからだ。
議論する、対話するということはコストである。手間がかかる。
面倒くせぇ…と相手がいなくなることは本当に残念なことである。