巷で「アクティブ・ラーニング」(以下面倒なのでAL)という言葉が流行しすぎて、いろいろと面倒なことになっているなぁ…という印象が。というか、自分もその流れに加担するような真似をしてしまっているのだけれど。
しかし、ちょっと自分の考えを整理しておかないと、流されそうな感じがするので、こまめに言葉にまとめておこうと思います。
まあ、厳密に書こうとすると引用が大変なので、思い付き程度に見てもらえれば…。
字面で話され過ぎなAL
最近、研修などでALという言葉に触れる回数が増えました。
今日もTwitter界隈を眺めていると好き放題にALについて言われることが多いこと…。
どんな言い方がされるかと言えば…
- アクティブの前にやることがある
- アクティブを強制する時点でアクティブじゃない
- アクティブに活動していたら時間が足りない
- アクティブな活動だけでは学力はつかない
などなど……。ほかの方面からの批判もありますが、以上のような批判は、Wiggins &McTighe(2005)Understanding by design(西岡加名恵訳(2012)『理解をもたらすカリキュラム設計―「逆向き設計」の理論と方法』日本標準)のなかで、「双子の誤り」と呼ばれるような考え方で、すでに検討されているものである。
- 作者: グラントウィギンズ,ジェイマクタイ,Grant Wiggins,Jay McTighe,西岡加名恵
- 出版社/メーカー: 日本標準
- 発売日: 2012/05
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それがどのようなものかといえば「網羅に焦点を合わせた指導」と「活動に焦点を合わせた指導」の二つだ。
「網羅に焦点を合わせた指導」とは、教師が表面的に教科書の内容をすべて教え込もうとする指導のことだ。
まあ、今までの授業のスタイルのことだと思えば大きくは外れない。そのような授業で子どもたちが忘れたり誤解したりするという問題があるのもよく分かってもらえるはず。
一方「活動に焦点を合わせた指導」とは、いわゆる「活動合って学びなし」というような授業のスタイルのことであって、ALに対して強く反応している人はこの部分を指摘している場合が多い気がする。
ただ、「活動に焦点を合わせた指導」を批判する人が、自分が「網羅に焦点を合わせた指導」に陥っていることを相対化できている人は、そう多くないように思う。
よく、「アクティブ・ラーニングは定義がされていないからよく分からない」という意見も多く見るが、そこまでいい加減なレベルで話は進んでいないので、ここで、ALの定義について、二つの例を挙げておく。
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。…(中略)…発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。*1
まずは、文科省のもの。大学教育関係のものだけれども、まあ、大きくズレはしないでしょう。
もう一つはALについて、活発に発言している溝上慎一先生の定義*2。
一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知的プロセスの外化を伴う。*3
高校・大学から仕事へのトランジション―変容する能力・アイデンティティと教育
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もちろん、「定義」であるので、「こういうものがALだ」だとか「ALはこうしなければならない」というような性質の記述ではない。
そのため、「抽象的でわかりにくい」「具体性がないから議論にならない」というのであれば、それは、もう「定義」についての議論ではないだろう。
ここで、注目するべきはどちらの定義も、一方的な講義形式について言及している点である。
なぜ、これほどまでに一方的な講義について言及しているのかと言えば、「知識」のあり方がこれまでと同一に考えるのが難しくなっているという背景がある。
かなり大ざっぱな説明になるが、一人一台スマートフォンを持ち、誰でもインターネットに手軽にアクセスできる時代に「暗記する知識」にどれほどの意味があるのか、人工知能が人間を凌駕しつつある時代に、ただ物を知っているだけでどれだけ意味があるのか。
このようなことを考えてもらえれば、「知識を注入するだけ」の教育の限界を感じてもらえるのではないだろうか。
だからこそ、「創造」だとか「探究」だとかいう「単なる知識」だけではなく、「知識を意味のあるものとして構成していく」という観点*4が強調されるようになり、「一方的な講義」の限界性が言われるようになってきているといえる。
だからこそ、上で述べたように「双子の誤り」のうち、「網羅的な指導」に陥ることについては、注意深くかつ自覚的になる必要性は高い。今までが「網羅的な指導」が中心だっただけに、惰性で指導を行えば「網羅的な指導」が再生産されるだけだからだ。
もちろん、ALについて述べている人は「講義」について「まったくやってはいけない」というようなことは述べていない。
たとえば、溝上(2014)でも、聴くことによって知識や思考が動くことの意味は認めている。ただ、その一方で、「外化」を伴わない学びのあり方の問題が多かったことを指摘し、「外化」によって学びの深化と「外化」されたものを適切に評価することを言っている。
今まででは通用しないという前提
以上のことを踏まえれば、「活動の前に知識の徹底」だとか「今までやってきたことがALです」だとかという意見が、かなり感覚的な話だと分かるのではないだろうか。
そもそもの話として、「出口」の部分をどうするのかという発想が欠落していることが大きな問題なのだ。
教えている方からすれば「一定の知識」を「網羅的に」教えるほうが批判も少なく楽である。
しかし、そこで立ちふさがっているものが「出口」の行き詰まりなのである。いくら知識をつけたところで、その知識が社会につながらないというのが現状である。
今まで先送りにできていた問題を先送りにしてはいけないという所に議論のスタートラインがあるので、ここが共有されない限り、なかなか、授業方法そのものの議論はできないのだろうと思う。
偉そうなことを書きましたが、詳しくは以下の本を参考にしてください。素人が思いつきそうなAL批判についてはすべて書いてあります。
高等学校におけるアクティブラーニング 理論編 (アクティブラーニング・シリーズ)
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勉強しないで批判するなとは言いませんが、教員が勉強しないで今までのことを繰り返して誤魔化すのは誠実ではないだろうとは思います。