ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

【書評】国語科ってなんだっけ?

久しぶりにアクティブ・ラーニングってタイトルの本を買った。 

すぐ実践できる!  アクティブ・ラーニング 高校国語 (アクティブ・ラーニング教科別実践法シリーズ)

すぐ実践できる! アクティブ・ラーニング 高校国語 (アクティブ・ラーニング教科別実践法シリーズ)

 

毎度おなじみ『学び合い』の本です。 

s-locarno.hatenablog.com

上の記事でも書いているけど自分が『学び合い』で授業をやることはないと思う。

本書を読んでも『学び合い』を高校ではたぶん自分がやることはないだろうと思った。でも、やっていることは似たようなことはやっているんだろうなぁとは思うけどね。

前半の理論編はおなじみ

本書の前半の理論編は西川純先生による『学び合い』とアクティブ・ラーニングの関係について解説。

簡単に「主体的・対話的で深い学び」についても触れているけど、用語の解説としてはアクティブ・ラーニング寄りな気はする。既出の他の本との一貫性を優先したのだと思いますが、これだけ話がこの半年で動いたことを考えると、用語のずれは気になる人はいるかもなとは思う。

結局、このあたりの解説も『学び合い』の理屈のために、必要な話を引いているだけなので、たぶん細かいツッコミをいれるだけあまり意味はない。前述のとおり、他の本との一貫性で書かれているのだろうし、分かりやすさのほうが重視なんだろうと思う。

そのあたりが胡散臭いと言ってしまえばそうなんだけど、手引書としては正しいスタンスだろう。

国語の実践について悩む

現場の先生による『学び合い』の実践についての紹介。

最初に語りをすることや授業中に生徒の間を見て回ることや最後に集団を評価することなどは『学び合い』の手法そのものです。さすが、すべての学年、教科で普遍的に実行できると豪語するだけはあって、このあたりのシンプルさや徹底ぶりはすさまじいものがある。

その後、国語科の実践者による実際の事例紹介が、分野ごとに簡単に書かれているのだけど、この実践を見ると何とも言えない気分になってくる。

「解答ではなく根拠を考えさせる」などの発想は面白いアイデアだと思うけど、一つ一つの授業の課題や評価規準の立て方は本当にそれでいいのかなぁ…と思うような感覚は何となくある。

アクティブ・ラーニングにおいては、明確な目標として言語化できること、妥当な評価基準をつくれることが「教科の専門性」と呼ばれることになるのです(P.111)

と、立派に教科の専門性とは何かを紹介してくれているのだけど、この解説で「なるほど!」と思えるほど単純には自分はできていない。

教科の専門性を標榜して大村はまを初めとして、様々な実践と頭を突き合わせて考えていることが無駄だとは思い難い。コンコルドの誤り的な投資したものを損きりできないだけなのかもしれないけど。

教えるべきは言語技術なのか資質能力なのか

読んでいて何とも言えない気分となってくるのが、教えるべき内容についてだ。国語だからこそ、「何を教えるか」ということが迷子になりやすく、「活動」自体が目的化しやすい。

そんな事情のある科目だからこそ、単純な「作業」や「確認」のような基準と非認知能力のような基準のはなしが混在しているのは気になる。おそらく単純な「根拠をみつける」ような課題をいくら積み重ねても非認知能力的なコンピテンシーにはつながらないだろうなぁと感じるので、このあたりを雑多に混ぜて実践すればいいという話をしていいのかなぁとは思う。

まあ、難しいことは言わなくても

これまでの国語科教育の実践は名人芸だと言われてしまうとぐうの音も出ない。大村はまにはなれません。

でも、だからといって名人の遺産を使わない必要もないわけです。

どうやってこれまでの先行研究とつながっていくのだろう?

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