今日は軽めに問題提起でおしまい。
本格的に仕事が忙しくなってきたので、授業で感じた感想や問題意識を書き留めておいて、将来の自分に考えることを託そうと思う(笑)
アクティブ・ラーニングの流れの中で
どうしても「アクティブ・ラーニング」をしようと思うと、子どもたちの間でのやりとりが行われる。そもそものアクティブ・ラーニングの定義は、何度も紹介しているが、次のようなものだ。
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。…(中略)…発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。
さらに「審議のまとめ」の中では、アクティブ・ラーニングは「主体的」「対話的」で「深い学び」であると言い換えられており、より「対話」という概念に対して踏み込んで述べられるようになって来ているように感じる。 また、次のような「活動あって学びなし」になることを警戒するような内容も記述されている。
形式的に対話型を取り入れた授業や特定の指導の型を目指した技術の改善に留とどまるものではなく、子供たちの質の高い深い学びを引き出すことを意図するものであり、さらに、それを通してどのような資質・能力を育むかという観点から、学習の在り方そのものの問い直しを目指すものである。
対話を前面に押し出している「哲学対話」
そんな中で自分の周囲で少し話題になっているのが「哲学対話」という方法論です。
厳密に言うなら、アクティブ・ラーニングが話題になるよりも前から、本質を子どもに考えさせようという願いから、「哲学」に関して「対話」を通じて育てていこうというような方法である。
非常に雑な言い方をするならば、以前に少し流行した『これからの「正義」の話をしよう 』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)のサンデル先生の「白熱教室」のようなイメージだろう。
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一見すると、生徒と授業者の間で頻繁なアウトプットがなされているために、「これぞ理想の授業!!」と思う人は多いのだけれども、そうやって飛びついてしまう人には次の本を勧めよう。
徹底して「哲学対話」を拒否する
名前を拝見するだけでダメージを受けるくらいに、圧倒的な力を持った先生である宇佐美寛先生は、次のような本を書いている。
この本を読んでもらうと、サンデルに親を殺されたんじゃないかと思う位に、大小さまざまな「白熱教室」の問題点をあげつらい、徹底して「対話」を強要する授業のあり方を拒否している。
その意図としては、非常に大ざっぱにまとめるのであれば、「考える余地のないことをろくに考えさせることもさせないで考えたようなふりをさせること」に対する徹底的な抗議なのだろう。
そのため、上で紹介した子どもに「哲学対話」をやらせるようなこととについては、徹底して反論を行っている。
おそらく、近年のアクティブ・ラーニングの流行に対して、文句を言いたい人が読むと小気味よく見えるんじゃないかなぁとは思う。ただし、宇佐美先生の意図としては、別に力がついたかついてないかわからないような、今までのつまらない講義形式の授業を擁護しようとする気もないあたりも背筋が伸びる。
「対話」についてどう考えるか
国語の教育をかじった人であれば、西尾実や大村はまの文章を読んでいると「対話」に対するこだわりが相当にあることをご存じだと思う。「問答」と「対話」は違う!だとか「対話」のある教室が実現できなければいけないとか。
この辺りの感覚は、非常に国語科の込み入った話であるので、他教科からみるとわかりにくいところなのだろうけど、「対話」とは何かということをきちんと授業者が見取ることができることは、アクティブ・ラーニングの評価にも関わるような話だと思う。
一見すると、まじめに活動しているような生徒が、結果が残らないのだとすれば、それは活動の質そのものを問わなければならないし、その際に活動で子どもたちが話している言葉が形式だけの上滑りなものか、相手との関係に基づいた「対話」なのかを評価していく必要はあるだろう。
アクティブ・ラーニングだろうとなかろうと、形そのものは学力に対して関係しないだろう。
学力を伸ばすには、形式そのものでなく、活動にどれだけ関与しているのか、どれだけ活動のために準備や思考が活性化されたのかを見取る必要がある。そうやった認知プロセスを評価したいというのであれば、アクティブラーニングとして、どのような認知が行われているかということを外から見て分かる形にすることに必然性はあるように感じている。