グルグルと頭を抱えるような課題をやっています。
生徒にはキツイ。そして待っている自分もキツイ。何となくお互いにLose-Loseである。
しかし、生徒に対しては、「とにかく書く、読む、話して、聞く」という国語で使う技能を全部ちゃんと使えと我慢して言っているところだ。「読む」だけでは分からないことも「書く」ことで分かることもあるし、「書く」ことが行き詰った時に「話す聞く」でブレイクスルーがでることもあり、「話す聞く」だけでは形が残らない。
とにかく全部をやらなければいけないんだとしつこく問いかけるのが今の仕事だ。
どうしても関わりたくない
生徒の様子を見ていると頑なに一人でやろうとしている生徒がいる。残念ながら一人でやっていて50分持つ様子もない。
普段の単元であれば、支援に入るし放っておかないのだけど、ここは自力で決着つけなければいけない場所だと思っているので、分かっていながら放置している。非常に酷いことをしているのかもしれない。
でも、頑なに他人に頼ろうとしないというのは、関わりたくないという意思表示なのだろうと、今回は助け舟を出さない。
もちろん、助け舟を出しに行かない生徒同士の関係性にも思うところはあるけど、それもそれとして見ている。自分たちにとって大きく損であるというイメージが持てていない、見ていて苦しいところだ。
(講話)「あの子はおとなしい性格だから」は無責任!-何のための学校教育か?
ここで指摘されている通りである。関わりたくないものを放置するのは非常に無責任である。
生徒学生が将来力強く仕事をし社会生活を営めるようになる、それに向けての成長を指導・支援するためではなかったのか。そのための学力をつけるためではなかったのか。
人と関わらない人生なんてやっぱり難しい。
これは大村はまも言っていることだ。
「…だけれども、言うことがないよりも、ずっとまし。言うことがあったけれど、言わなかったんでしょ。言うことがなくては、ちょっと困るけれど、あってもちょっと言えないかったでしょ。そんなことかまわないし、相手によって言いたくないことだってあるから、それはいいけれど。ただそういうふうにやっていくと、世の中を生きていくには、世の中のためになる度合いが少し足りなくなるんで、それだけ幸せでないってことは覚悟しなければね。それはサッと発表して生きていくのと、黙って生きていくのとでは、多少寂しい思いをすることが、言わなかった罰みたいなの、あるかも知れないわね。それを覚悟すれば構わないですよ」(P.114 下線強調は引用者)
ここまで強く言わなければいけないのかもしれない。
難題から逃げ出させたくない
今回の単元がこうして孤立したり上手く回らない理由はある。それは単純に生徒に対して課題のハードルが非常に高い。自分で多くの文章を何度も読んで何ページもノートを書き直して、時間を割いて議論しないと分からないような課題になっている。だから、自分で授業の外でも時間を取って納得いくまで考えてこないと、50分の授業の課題に参加できない。それだけに、自力で粘れないとキツイ。
自分で粘れないとどんどん周りから離れていき、いよいよ周りに参加できない。はっきりと悪循環である。
そうして、その悪循環から抜け出せないでいる。とても見ていてよく分かる。いっそのこと生徒からすればダメだしされたほうが気楽なのかもしれない。
でも、今回は何も手助けしない。自力で気づかないといけないし、自力で苦労しなければいけない……と思っている。正直、キツイ。
成果が人によってバラバラであっても、全然、この数時間の授業が無駄になったとしても、自力で解決するための悪戦苦闘をしてほしいのだ。失敗しても教室だから取り返せる。手を離されたときに、どこまで自力で粘れるのかとちゃんと向き合ってほしい。
しかし、やっぱり、そういう気持ちは伝わるのは難しいかもなと思う。
ある意味で「失敗」を待つという、手抜きである。
結果を座して待つだけ
とても苦しいところだ。
ひたすらに、待つ。よくないものを直視しながら、助けないこと。
果たしてありなのかね…